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◇ 1. 宝暦治水と明和の治水

 宝暦3年(1753)、徳川九代将軍家重は薩摩藩に木曽川治水工事御手伝普請を命じた。この「宝暦治水」は余りにも有名な出来事である。薩摩藩士たち(947名)の過酷な工事は、多数の殉職者を出しながらも、宝暦5年(1755)3月に完了し、その年の5月工事責任者平田靱負は、「住みなれし 里も今更名残りにて 立ちぞわずらふ 美濃大牧」の辞世を残し、自害した。その183年後、昭和13年(1938)、薩摩藩士の遺徳を顕彰する治水神社が建立されている。だが、薩摩藩士たちの苦労にかかわらず、その後も水害は絶えなかった。さらに、徳川幕府は15回も水普請を命じている。

 明和3年(1776)、幕府は長州藩と岩国藩に木曽三川の御手伝普請を命じた。「明和の治水」と呼ばれる。長州藩士800名、岩国藩士160名が従事した。

 工事内容は、大榑川洗堰の全面改築、大小300ヵ所の堤切所の復興と補強工事、揖斐川の万寿悪水圦樋(水門)の改修工事、牛牧閘門(水量調節する堰)の改修であった。その水普請の出費30万両(薩摩藩は40万両といわれている)であった。これほどの工事、出費にもかかわらず「明和の治水」は、余り世に知られていない。その理由について、多くの犠牲者を出した薩摩藩の治水工事が人々の哀れを誘ったのに対し、明和の治水工事には、幸運にも犠牲者は一人も出なかったために、世から流れ去る結果になったという。

 昭和44年(1969)、岐阜市内長良川左岸四ツ屋公園に、「長州藩士治水顕彰碑」が山口県出身総理大臣佐藤栄作によって、長州藩の遺徳を偲び建立された。

 以上、木曽三川工事における「宝暦治水」と「明和の治水」については、吉村朝之著『源流をたずねてX 揖斐川水系』 (岐阜新聞社・平成19年)に記されている。

 なお、この書には、揖斐川の本流、揖斐川の源流で消えた集落、揖斐川の上流の3章からなり、揖斐川最源流で凍結されたダム、徳山ダムに水没する旧徳山村、上大須ダムがある根尾川の源流、牧田川の支流水門川、杭瀬川に栄えた赤坂港、坂内川の最源流夜叉が池と伝説などを追っている。


『源流をたずねてX 揖斐川水系』
◇ 2. 木曽三川の流れ

 木曽、長良、揖斐の三川は、長野、岐阜、滋賀、愛知、三重の5県に流域を持ち、9,100km2の流域面積を有する。古来、この三川は一つの川として濃尾平野を乱流していたが、明治改修の結果三川分流がなされ、現状の河状となった。建設省中部地方建設局監修『木曽三川その治水と利水』(国土開発調査会・昭和58年)により、木曽三川についてみてみたい。

@ 木曽川は、その源を長野県西筑摩郡木祖村鉢盛山(標高2,446m)に発し、木曽谷として名高い渓谷を中仙道に沿って南南西に下って岐阜県に入り、落合川、中津川、阿木川、付知川、飛騨川の諸川を合流し、愛知県犬山市で濃尾平野に出て南西に流下し、長良川と背割堤を挟んで並流しつつ伊勢湾に注ぐ、幹線流路延長227q、流域面積5,275km2の河川である。

A 一方、長良川は、岐阜県郡上郡高鷲村奥本谷の大日岳(標高1,709m)に源を発し、諸渓谷を経て南東に流下しながら郡上八幡町において、吉田川、亀尾島川を合流し岐阜県美濃市において板取川を合わせて濃尾平野に出て、南西に流れ、津保川、武儀川、伊自良川を合わせ、南流し、背割堤を挟み木曽川と併流して、三重県桑名市で揖斐川と合流し、伊勢湾に注ぐ、幹線流路延長165.7q、流域面積1,985km2の河川である。

◇ 3. 揖斐川をたどる

 揖斐川は、木曽三川のうちでは最西端に位置し、その源を揖斐郡徳山村(現・揖斐川町)冠山(標高1,257m)に発し、山間渓谷を流れ、徳山ダムを下り、坂内川を合わせ、横山ダム、久瀬ダム、西平ダムを下り、揖斐川の扇状地に出、濃尾平野に至り、右支川粕川、上大須ダムのある左支川根尾川を合わせ、長良川と並流しつつ牧田川、津屋川、大江川、肱江川を加え、三重県桑名市で長良川と合わせ伊勢湾に注ぐ、幹線流路延長121q、流域面積1,840km2の河川である。

 地形的には、揖斐川の上流部の多くは断層谷で、いずれも峡谷を形成し、幼年期的河谷地形を呈しているが、支川坂内川の水源は、1,000m内外の平頂峰の隆起準平原である。しかし、支川粕川流域は伊吹山を中心とした、1,000〜1,300mの山塊が断層によって区切られており、断層は南北方向のものが多く、大規模な浸食地形を示し、急傾斜をなしている。北部の花崗岩地帯の山腹斜面は緩やかで枝谷が多くV字形渓谷をなし、壮年期地形を呈している。南部の牧田川流域は、霊仙、養老の両山地からなっており、山容も低くなっている。

 揖斐川流域面積1,840km2のうち、森林面積率は70.7%(1,300km2)で、また、年間降水量は、揖斐川流域では3,000o以上と多く、年間流出量は揖斐川万石地点で平均28億m3/年である。

 木曽三川の洪水流出をみてみると、昔から「四刻八刻十二刻」と言われており、揖斐川が一番早く出水し、長良川、木曽川の順に出水し、次々と逆流、氾濫を起こす。その出水の原因は、西南から東北に通過する低気圧、台風で、縦断特性と相まって、西に偏する揖斐川が先ず出水し、長良川、木曽川が順次これに続く。入り乱れる三川、洪水のたびごとに変わる流路、このような状況のもとの治水の難しさは輪中に代表される木曽三川特有の水防共同体を生み、前述の『宝暦治水』の悲話を残している。


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