[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]


◇ 4. 揖斐川の水害

 再度繰返すことになるが、木曽三川の出水を表わす「四刻八刻十二刻」の言い伝えを現代の時間に直すと、一刻は30分であるから、それぞれ2時間、4時間、6時間となる。つまり大雨となれば、先ず西に位置する揖斐川が出水し、その2時間後長良川、そして4時間後木曽川が増水し、さらに6時間後には三川が氾濫し、逆流して下流域は大洪水となる。すなわち、木曽三川が流入する濃尾平野は東側が高く西側が低く、また北が高く南が低い地形のために木曽川、長良川の水は西へ西へと流れ、やがて揖斐川へ入り、南へと下り、下流域に水害を及ぼすこととなる。近年における揖斐川の水害について、前書『木曽三川その治水と利水』により見てみる。

(1) 昭和28年9月25日〜26日洪水
 この洪水は台風13号によるもので、中部地方に大災害をもたらした。(三重県、愛知県両県で死者122人、被害総額1,270億円)特に台風通過が大潮満潮時と重なったため、異常高潮を起こし、伊勢湾、渥美湾、知多湾沿岸一帯の海岸堤が溢流破堤して惨状を呈した。揖斐川筋における連続雨量は200〜410oに達し、揖斐川は当時の計画高水位に迫る洪水となった。なかでも牧田川は計画高水位を大幅に突破し、牧田川の上流部で破堤した。

(2) 昭和34年8月12日〜15日洪水
 この洪水は集中豪雨とそれにつぐ台風7号によるものであり、揖斐川において根古地地先及び多度川の破堤を見た。揖斐川流域では1時間30〜50oの強雨があり、特に東横山では12日の日雨量420oを記録した。台風7号の接近により、揖斐川流域は連日200〜300oの大雨となった結果、東横山では総雨量638oを記録。当時の計画高水水位を超える出水となった。下流今尾では既往最高水位を超え、養老町根古地地先で破堤、2,500haが泥沼に化し、さらに下流の多度川左岸堤も破堤250haに濁流が流れ込んだ。

(3) 昭和34年9月26日〜27日洪水
 この洪水は伊勢湾台風と称せられ、災害史上、未曽有の大災害をもたらした。死者4,541名、行方不明者64,733名、被害総額5,543億円。降雨は木曽川流域で100〜220o、長良川流域で100〜300o、また揖斐川流域では300〜400oで揖斐川流域が一番多く、台風の接近に伴って短時間に強い雨が降り、時間雨量60〜80oに達し、牧田川、揖斐川、長良川、木曽川の順に警戒水位を突破し、やがて揖斐川、藪川(根尾川)、牧田川大野は既得最高を上回り計画高水位を突破。このため牧田川根古地地先は、さきの8月洪水で破堤し、ようやく応急締切を完了した矢先に再び揖斐川本流の背水の影響を受けて破堤の憂き目をみた。

(4) 昭和40年9月15日洪水
 揖斐川の上流藤橋村(現揖斐川町)東杉原地区に集中豪雨をもたらし、大災害となった。
 日雨量1,000oを記録し、年間雨量三分の一の降雨をもたらした。9・15集中豪雨と呼ばれる。
 一夜明けた村の様子は、村の半分の家が流され、土砂に埋まり、静かな山里は一面の河原に変わった。通信も交通も途絶え、悪天候の被災地へは歩くより方法はなく土砂を除き、倒木をおこし、道をつくりながら救援活動、自衛隊50名、岐阜県機動隊29名は久瀬村から20qを歩いて救援作業を行った。東杉原地区は「雨がきついで、考えて帰っておくれ」という村人の挨拶が生まれた所で、こうした平生の注意が今度の集中豪雨に生かされ、一人のけが人も出さなかった。この災害を機に越美砂防事務所が昭和43年に発足し、越美地方の砂防事業を行っている。

(5) 昭和50年8月23日〜24日洪水
 この洪水は台風6号によるもので、揖斐川流域では伊勢湾台風を上回る豪雨となり、揖斐川とその支流牧田川は大洪水となった。21日〜23日までの総雨量は揖斐川上流部では250〜650oの大雨となり、揖斐川流域の雨量は諸家観測所645o、塚観測所347o、門入観測所536o、川上観測所534o、杉原観測所443oを記録。このように伊勢湾台風時を上まわり、各地域において警戒水位、既往高水位となったものの、幸い破堤等の大災害には至らなかった。それは横山ダム(昭和39年完成)の調整効果によって、ダム下流は計画高水流量程度の洪水でおさまり、万石地点では1.10m程水位が低下したと推定され、洪水調節ダムの役割を果した。

◇ 5. 揖斐川の水力発電

 揖斐川の流れは、ときには水害を及ぼすこともあるが、流域の人々には生活用水、農業用水、発電用水に利用されてきた。水力発電について、木曽三川治水百年のあゆみ編集委員会編『木曽三川治水百年のあゆみ』(建設省中部地方整備局・平成7年)に、次のように記されている。

 揖斐川の水力発電は、粕川の開発が最初で、明治41年岐阜電気によって小宮神発電所が完成し、大正2年河合発電所、大正9年春日発電所も運転開始し、岐阜市方面の電灯電力を供給していた。

 根尾川では濃飛電力によって、大正12年長島(現・根尾)発電所、昭和4年金原発電所が発電を開始し、桑名、四日市方面に電灯用に供給していた。これらはいずれも水路式発電所である。なお、根尾川上流には中部電力によって、平成7年上大須ダムなどの奥美濃発電所が発電を開始した。


『木曽三川治水百年のあゆみ』
 揖斐川本川では、揖斐川電力によって、大正4年西横山発電所(横山ダム建設で水没)、大正10年東横山発電所、大正14年広瀬発電所、昭和10年川上発電所が完成したがいずれも水路式発電所である。昭和15年西平発電所が完成、この発電所は揖斐川の最下流部に位置し、逆調整のための西平ダム(高さ31.5m)をもつダム式発電所である。揖斐川本川の発電電力は大垣市を中心とする地域の電灯、動力用に供給されてきた。

 昭和26年電気事業再編成により、揖斐川水系の発電所は中部電力が引き継いだが、東横山、広瀬、川上の3発電所は建設の経過から、揖斐電工梶i現・イビデン)の自家用発電所となった。その後久瀬発電所は中部電力に引き継がれ、昭和28年に完成した。また、横山発電所は揖斐川初の河川総合開発事業である特定多目的ダム法に基づく横山ダム建設に参加し、昭和39年に完成した。

 なお、農業用水については、横山ダムで開発された水が岐阜県揖斐川町上岡島地先に岡島頭首工の新築により、この地点から最大23.35m3/sを取水し、大垣市外8,798haの農地に水路、サイホン等により補給されている。


[前ページ] [次ページ] [目次に戻る]
[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]