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戦時下の大難工事〜眉山溜池(肩山ダム)

拾泉舎(山口県)
 
1.はじめに

 肩山(かたやま)ダムは、佐賀県伊万里市にある農業用アースダムで、ダム便覧上では位置未確認のままとなっています。竣工は1946(昭和21)年ですから、溜池の中ではさほど古いものではありません。
 ダム便覧の位置情報は井手口川ダムにごく近い山中を指しており、航空写真ではその場所に確かに溜池があります。『伊万里市洪水ハザードマップ』を確認してみると、溜池名は眉山溜池となっています。
 果たしてこの眉山溜池が肩山ダムなのか、現地を訪問してみることとしました。


眉山溜池位置図
2.現地訪問

 溜池があるのは伊万里市大川町大字井手口で、井手口川ダムから車で数分程度の距離にあります。南側には眉山(まゆやま)という標高518mの山が控え、武雄市との境界になっています。また溜池周辺の古い字名も眉山であり、溜池の名称は山名又は地名に由来するものと考えられます。
 コミュニティバスの善徳(ぜんとく)バス停がある位置から山側に向かう狭い道路を数百メートル進むと、溜池の左岸に到達します。道路はコンクリート舗装されており、普通車程度であれば接近に難はありません。


眉山溜池堤体
 ダム便覧上の肩山ダムのデータは、堤高22m、堤頂長104mとなっていますが、眉山溜池の堤体はそれよりやや小さく見えます。周囲は森に囲まれた静かな環境です。


眉山溜池貯水池
 貯水面はブロック貼になっており、右岸側にある流入式の洪水吐と一体化しています。比較的近年に改修されたものではないかと思われます。


眉山溜池堤体と洪水吐(撮影は水位低下時)
 取水設備も右岸側にあり、階段型の樋がかなり深い位置まで設けられています。


眉山溜池取水設備(撮影は水位低下時)
 溜池左岸の道路を挟んだ位置に、「眉山溜池記念碑」が建てられています。二重になった基壇の上段には漢字カナ交じりの長文が、下段には寄附金の一覧が刻字されています。


眉山溜池記念碑
 基壇の文字は一部摩耗していますが、なんとか読み取ることができました。内容は溜池建設の経緯を克明に著したもののようです。たいへん長くなってしまいますが、次項で全文を掲載します。(転記・口語訳とも筆者によるものであるため、誤りはご容赦ください。)


眉山溜池記念碑拓影(部分)
3.眉山溜池記念碑

(碑右側面)
昭和二十四年十二月建之
(碑正面)
新設/眉山溜池記念碑/佐賀縣農地部長 瓜生和夫書
(碑左側面)
井手口区
(礎石正面)
抑々治山治水ノ完備ハ其土地ヲ潤シ引イテハ国家興隆ノ基ヲナス當井手口部落ハ古来水利灌漑複雑ニシテ中央ヲ流ル井手口川ノ右岸ニ一ノ井手乙盆田浦田北中中田江左岸ニ突本善徳黒川桑木田神田榎田上勢揃野下勢揃野ノ十三個所堰ニヨリ各々定メラレタル掛リ田ノミニ灌漑セラル溜池モ竹ノ下竹ノ上黒川山手湯舟摺込田ノ部落有ト私有ノ小溜ガ點在シ之ガ灌漑モ旧来ノ慣例ニヨリ制限セラル偶々慈雨ニヨリ川ハ増水スルモ其利用意ノ如クナラズ愈々旱魃トナレバ部落ハ川ヲ挟ンデ對立抗爭絶間ナク其ノ感情ハ常ニ部落ノ融和ヲ缺キ心アル先輩達ハ此ノ禍根ヲ絶ツ途ハ上流ニ溜池ヲ新設シ水路ノ完備ト相俟ッテ総テノ灌漑水ヲ一纏ニスル他ニ途ナシト幾度カ溜ノ新設ヲ計画セラレシガ終ニ實現スルニ至ラズシテ以来部落ノ懸
(礎石左側面)
案トシテ残サルゝニ至ル時シモ昭和十四年西日本一帯ヲ襲ヒシ大旱魃ニヨリ部落ノ被害ハ甚大ニシテ水田ノ大部分ハ収穫皆無ノ惨状ヲ極ム時恰モ支那事変ハ愈々酣トナリ政府ハ食糧増産ニ全力ヲ擧ゲテ恒久的旱害防止對策ノ補助事業計画ヲ樹立セラルゝヤ當時區長松本健治郎氏ハ同志松尾彌太郎鶴田初味両氏ト相計リ部落多年ノ懸案解決ノ好機会コソ逸スベカラズトシテ先ヅ大川村當局ノ同意ヲ得眉山々麓溜池ノ位置ヲ選定村營事業トシテ出願ノ決意ヲ固メ部落民ノ同意ヲ求ムルト共ニ関係地主ノ賛同ヲ求ムルモ容易ニ決セズ議ヲ重ヌル事實ニ数十回斯クシテ事業の門出ハ幾多々難ヲ孕ミツゝ未曾有ノ大事業ハ誕生ス即チ事業費六万四千円ヲ以テ昭和十五年十二月起工以来耕地課嘱託工事監督
(礎石裏面)
古藤長之助氏ノ指導ノ下一度鍬ヲ入ルレバ豫想ハ裏切ラレテ土ハ少ナク巨石累々トシテ数知レズ床堀深ク二十四尺ニ達シ両袖ノ切取リハ岸壁ニシテ容易ニ進捗セズ谷間ノ砂土ハ水ヲ含ミテ運搬ニ固難難工實ニ言語ニ絶シ縣下随一ノ大難工事トシテ縣當局ヲ勞スルコト尠カラズ加エテ支那事変ハ大東亜戰爭ト擴大シ資材ハ日ニ不足ヲ告ゲ壯者ハ次々ニ應召シ工事ハ終ニ老人婦女子ヲ以テ進行スルノ止ムナキニ至リ事業ノ前途ハ愈々重大ナル局面ニ突入松本松尾鶴田三氏ノ苦衷益々加リ更ニ部落内ニモ工事ノ前途ヲ憂ヒ事業中止論擡頭シ三晝夜ニ亙ル論議モ終ニ決セズ縣古賀主任技手ノ断呼タル措置ニヨル設計変更ニ依リ工費金七万三千円ヲ以テ工事ヲ継續部落民擧ゲテ一体トナリ此難工事ノ完遂ヲ誓フ茲ニ於テ村内ノ同情俄ニ集リ村民ヲ始メ壯年團婦人會男女青年團小學校生徒佐賀縣食糧増産隊伊萬里農林學校商業学校佐賀
(礎石右側面)
高等学校縣農兵隊等戰時食糧増産隊ノ勤労奉仕隊ニ依リテ着々ト進捗之ニ力ヲ得テ部落民ノ意氣愈々擧リ嚴寒酷暑ヲ克服シ寝食ヲ忘レテ出夫着工以来實ニ五星霜終ニ見事偉大ナル工事竣工ノ日ヲ迎エ當時ヲ回顧スル時誠ニ感慨無量ナル竣工ノ事元ヨリ縣村當局ノ絶大ナル援助ト周囲各團体ノ協力ノ賜ナルハ勿論委員長ノ終始一貫堅忍不抜ノ精神力ト古藤氏ノ献身的指導並ニ建設委員始メ部落民ノ不撓不屈ノ努力ノ結晶ニ他ナラズ今ヤ多年ノ宿望達セラレ水利ノ設備ト相俟ッテ灌漑ハ全田均等ニ配セラレ農耕ノ利便ハ勿論生産収益ヲ欣ブ部落民ハ和氣藹々孑々トシテ生業ニ励ム茲ニ部落民相計リ記念碑ヲ建設シテ偉大ナル業績ヲ稱エ以テ後世ニ傳ヘントス

(口語訳)
 そもそも治山治水の完備は、その土地を潤し、ひいては国家興隆の基となる。
 ここ井手口地区は、昔から水利や潅漑が複雑であり、中央を流れる井手口川の右岸にある一ノ井手、乙盆田、浦田、北中、中田江、左岸にある突本、善徳、黒川、桑木田、神田、榎田、上勢揃野、下勢揃野の13箇所の堰によって、それぞれ定められた掛り田にだけ潅漑されていた。
 溜池も、竹ノ下、竹ノ上、黒川、山手、湯舟、摺込田の地区所有の溜池と、私有の小規模な溜池が点在しており、潅漑の方法は昔からの慣例によって制限されていた。たまたま慈雨が降って川が増水しても、水を思い通りに利用することはできず、さらに旱魃ともなれば川を挟んだ地区が対立して争うことが続き、こうした感情が地区間の融和を妨げていた。
 心ある先輩達は、こうした禍根を断つためには上流に溜池を新設して水路を完備し、全ての潅漑水利を一まとめにするしかないと考え、幾度か溜池の新設を計画されたが、なかなか実現に至らず、地区の懸案として残されていた。
 時に昭和14年、西日本一帯を襲った大旱魃によって地区の被害は甚大なものとなり、水田の大部分は全く収穫ができないという惨状であった。
 その頃日中戦争は激しさを増し、政府は食糧増産に全力を挙げて旱害防止対策の補助事業計画を樹立していた。当時の区長であった松本健治郎氏は、同志である松尾彌太郎氏、鶴田初味氏と相談し、地区の多年の懸案を解決するこの好機をのがしてはならないと考え、まず大川村当局の同意を得て眉山の山麓に溜池の位置を選定し、村営事業として出願の決意を固め、地区住民の同意を求めると共に関係地主の賛同を求めたが容易にはいかず、実に数十回の話し合いを重ねた。こうして多難をはらみながらも未曾有の大事業は誕生した。
 そして6万4千円の事業費で昭和15年12月に起工し、耕地課が依頼した工事監督古藤長之助氏の指導のもとに工事を進めようとしたが、実際に鍬を入れてみると予想は裏切られ、土は少なく無数の巨石が積み重なり、地盤の掘削は24尺(7.27m)に達し、両岸の掘削部分は岸壁となっていて容易には進まず、谷間の砂土は水を含んで運搬が困難であった。工事の難しいことは言葉にできないほどで、県下で最も難工事だとして県当局がたいへん苦労することとなった。
 加えて日中戦争が太平洋戦争へと拡大し、資材は日に日に不足するようになり、健康な者は次々に招集に応じ、工事はとうとう老人や女性、子供により進めざるを得ない状況に至った。事業の前途がさらに大変なことになったため、松本、松尾、鶴田の三氏は一層苦しみ、更に地区内にも工事の前途を憂慮して中止を求める意見が台頭し、三昼夜にわたる論議が行われたが結論が出なかった。
 県の古賀主任技手は工事費を7万3千円とする設計変更によって工事を継続する措置を強く訴え、地区住民は一体となって工事の完成を誓い合った。これによって村内からも一転して同意が集まるようになり、村民を始め、壮年団、婦人会、男女青年団、小学校生徒、佐賀県食糧増産隊、伊万里農林学校、商業学校、佐賀高等学校、県農兵隊など、戦時中の食糧増産隊の勤労奉仕によって工事は着々と進むこととなり、これに力を得て地区住民の意気はあがり、厳寒や酷暑を乗り越え寝食を忘れて工事に従事した。着工以来5年の月日を要して見事に竣工した偉大な工事を思い起こすとき、誠に感慨無量である。
 竣工に至ったことは、県や村当局の絶大な援助と周囲の各団体の協力の賜であったことはもちろんであるが、委員長の終始一貫した堅忍不抜の精神力と、古藤氏の献身的な指導、建設委員を始めとする地区住民の不撓不屈の努力の結晶に他ならない。
 今は永年の宿望が達せられ、水利の設備も整備されたことによって潅漑は全ての田に均等に分配されるようになり、農耕が便利になったことはもちろん、生産収益の向上を喜ぶ地区住民は、和気あいあいとしてそれぞれが仕事に励んでいる。そこで、地区住民が相談して記念碑を建設して偉大な業績を称え、後世に伝えることとする。

4.まとめ

 記念碑の文章を読むと、溜池の起工が1940(昭和15)年12月。竣工はその5年後とされていますので、1945(昭和20)年〜1946(昭和21)年だと考えられます。ここでもう一度ダム便覧に掲載された肩山ダムの諸元と対照してみると、竣工年・河川・事業者が一致していることがわかります。
規模については若干の差が感じられますが、周囲の溜池(いずれも小規模)の中では本溜池が最も大きく、他に肩山ダムに比定できる溜池はないようです。
 肩山という名称も、字形が類似する「眉山」の誤記であることが考えられるため、このたび訪問した眉山溜池が、ダム便覧における肩山ダムだと推定いたしました。

 眉山溜池を一見した率直な感想は、“普通の溜池”です。巨大なわけでもなく、特筆すべき設備があるわけでもなく、日本中に何万基もある溜池の一つに過ぎません。
 しかし碑文からは、地区の方の悲願と戦争に翻弄された工事の様子を窺い知ることができます。昭和15年から昭和21年という、まさに太平洋戦争と重なる時期に難工事を続けることには大変な苦労があったろうと思われますが、碑文のとおり「不撓不屈の努力」によって完成にこぎ着けた誇りと喜びが伝わって来るようです。2012年完成の井手口川ダムの機能は「F・N・W」ですから、地区の潅漑は今でも眉山溜池が担っているのでしょう。
 訪問者にとっては単なる“普通の溜池”でも、地区の方にとっては“特別な溜池”であることは間違いありません。眉山溜池に限らず、全国の溜池一つ一つがそれぞれの願いと努力をもって築造されているはずです。記録や記念碑が残されている場合にしかその詳細は知るべくもありませんが、全ての溜池が異なる歴史を持っているであろうことを考えさせられました。


井手口川ダム
(参考文献)
『大川町史』(大川町温故知新会、1978)
『大川町農業百年史』(宮本岩見、1993)
『伊万里市史 自然・地理編』(伊万里市史編さん委員会、2003)
『伊万里市洪水ハザードマップ8 大川町』(伊万里市、2011)
ウェブサイト「主要水系調査成果閲覧システム」(国土交通省国土政策局国土情報課)
ウェブサイト「地図・空中写真閲覧サービス」(国土地理院)

[関連ダム]  眉山溜池
(2017年1月作成)
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