[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]


カスリーン台風の猛威−利根川決壊口に挑む−


 ことしはカスリーン台風から70年目に当たる。
大水害が発生した1947年は、終戦からわずか2年後のこと。人も国土も戦争に献じた疲弊の極みにあった。濁流は関東、東北の東日本広域におよんだ。埼玉県東村(現加須市)などで破堤し、水は東京まで達した。川の本性はいちばん低いところに向かう。高い位置に川を付け替えても、計画以上の洪水がくれば元に戻ろうとする。カスリーン台風の首都浸水は、利根川が江戸を氾濫原にしていたころのDNAだ。戦禍に追い打ちをかける大水害は、GHQ(連合国軍総司令部)の指令による内務省解体という不測のなかにあった。首都水没の危機に、一刻も早い決壊口の「締め切り」が求められた。復旧のための人と物資が圧倒的に不足するなか、内務省は直営に加え請負業者を特命した。上流を任された鹿島組(現鹿島)と、下流の間組(同安藤ハザマ)である。水の侵入を止める締め切りは、ダムの基本技術だ。鹿島組は「内務省出身のエキスパート」を、間組は黒部川の水防集団「川鳶(かわとび)」を投入した。両社の治水史に刻まれた利根川の締め切りを振り返る。

 氾濫図
【カスリーン前夜/内務省から建設省へ】

高橋嘉一郎

加藤伴平
 2人の内務官僚を紹介する。
 1人はカスリーン台風の2年前に内務省を退職し、鹿島組に迎え入れられた高橋嘉一郎。もう1人は、関東土木出張所長として利根川災害復旧対策本部長を務めた加藤伴平。関東土木出張所長はいまの関東地方整備局長に当たる。加藤は初代関東地方建設局長になった。高橋の内務退職時のポストは近畿土木出張所長(近畿整備局長)。高橋の専門は河川、加藤は道路。入省年次は異なるものの、2人は旧制二校(仙台)の先輩後輩だった。
 高橋は16年入省。新潟土木出張所で神通川改修、立山砂防などに携わり、本省土木局第一技術課長などを歴任。鹿島に常務として入社、のちに専務、土木部長などを務めた。
 一方の加藤は内務省時代を通じて、関門国道トンネル建設の初代所長としての名声が高い。肖像レリーフが関門トンネル人道の下関口に掲げられている。
 高橋と加藤は34年、ともに本省勤務となる。当時、内務技師は土木局に属し、局長以下幹部は高等文官試験を通った事務官の補佐役にしか遇されていなかった。内務人事が青山士技監を筆頭に刷新すると、新首脳部は新風を吹き込むため、現場経験が豊富な「技師三人衆」の高橋嘉一郎(新潟土木出張所)、山下輝夫(大阪土木出張所)、加藤伴平(神戸土木出張所)を本省に呼び寄せた。
 敗戦を迎えた。
 内務省解体が47年末に迫る中、既に省内において警察関係が解体されていた。土木監督署官制制定(1886年)以来60年の伝統を誇った土木技術陣もどこに飛ばされるか分からない。加藤らは土木行政を司る建設省発足を求めて攻防を繰り広げていた。
 さなかに起きた利根川破堤。
 速やかな復旧で内務土木陣の存在感を示せるか。試練の時を迎えていた。

【エキスパートと仕事師/鬼怒川上流ダム群】

 建設会社も終戦は存亡の中にあった。
 内務官僚から鹿島に入社した高橋は75歳で亡くなる。翌年、追悼集(*1)が発刊された。
 その追悼集が語るところに耳を傾けると。
 「鹿島は業界では土木で首位だったものの、社内では“水”仕事はお家のご法度(はっと)」(小野威副社長、肩書はいずれも当時)とされ、また「厚木・松島の米軍航空基地工事の大赤字、朝鮮事変に伴うインフレの影響などで苦しい時期だった」(渥美健夫社長)。
 高橋の鹿島入りは「高橋さんのような建設畑の官界大物が、現在よりも産業界での地位が低く軽視されがちな建設業界に入られたのは稀有異例のことだった」(小野副社長)。
 そうした中に起きた利根川決壊。高橋は堤防締切工事の総監督として自ら陣頭に立った。


決壊箇所
 加藤も追悼集に一文寄せている。
 「敗戦で人も物もガタガタの時、管内の直轄部隊だけでは、とても早急に締め切りはできない。強力な民間の動員が必要と判断した。直ちに浮かんだのが河川の“エキスパート”高橋先輩のいる鹿島だった。
 18日(決壊3日目)、早朝から部下の伊藤工務部長を伴って、氾濫地の船橋から苦労して渡りぬけて本省にたどり着き、管内災害状況の報告を済ませ、残暑まだ酷しい午後3時、八重洲口の鹿島本社に高橋先輩を訪問した。当時、関東土木出張所は船橋に疎開していた。
 高橋先輩は、鹿島にはどんな難工事も必ずやり遂げる“日本一の仕事師”がいる、と快諾。氾濫騒ぎの真っ只中を、21日、トラックを連ねて、現場に乗り込んできた。百万の援軍を得た思いだった」

第一締め切り

第二締め切り
 工事は決壊口上流に第一水勢工120mを杭打ち、次いで聖牛(ひじりうし)19基を設置。続いて第一締め切りの杭打ち、蛇カゴを捨石とともに積み上げていき、流心を本流に戻す。第二締め切りで杭を4列打ち、石俵、土を入れ土堤を築く。水勢が強いから流されながらの杭打ちとなり、蛇カゴも流される。第二締め切りでは遮水に古畳を入れたが潜水夫もろとも浮き上がった。竹竿格子に莚(むしろ)張りも失敗。苦闘の末、鋼矢板を試してようやく成功した。最後の締め切りには高橋も水中に飛び込んで作業員と俵詰めをした。
 竣工式で加藤は「上流鹿島方は激流に挑み、危険な作業にもかかわらず犠牲者一人出さず、他班より常に先手を打って難関を突破し、締め切りを成功に導いた。その手腕に敬意を表する」とねぎらった。
 日本一の仕事師とはこの時、現場所長を務めた後の松尾梅雄専務である。
 鹿島は利根川決壊口締め切りをきっかけに鬼怒川上流の五十里ダムを受注する。そして川俣、川治、湯西川と、鬼怒川の4ダムを手掛けることになる。


 湯西川ダム
【黒部川の川鳶/水防集団が活躍】

 「川鳶」が、司馬遼太郎『街道をゆく−本所・深川散歩−』に出てくる。
 「川並(かわなみ)というのは筏師(いかだし)のことである。まれに川鳶ともいわれたらしい」とある。
 筏師は江戸期には既にあった稼業のようだ。江戸では普請に必要な材木は、秩父(埼玉県)などから筏に組んで川で運ばれた。入間川、高麗川、越辺川流域は西川林業地と呼ばれる材木供給地だが、西川は地名ではなく、消費地の江戸からみて西の川筋から筏流しで流されてくる材木のため「西川材」と呼ばれるようになった。材木は千住(東京都)を経由し、木場(同)の貯木場に浮かべられた。
 川並は、水に浮く木材の上で作業する。「木場角乗り保存会」が有名だが、労働というより芸に近い。江戸のころから深川以外では使われないことばだったようだ。
 川鳶は、これらとはまた違った生業(なりわい)で、舟を使って鳶の仕事をする人たちをいう。
 宮村忠関東学院大名誉教授が黒部川の川鳶に詳しい(*2)。特徴はこうだ。
 黒部川は雪解け水が激流となって春から氾濫する。そこで舟を使った鳶の技を磨いた。
 服装は笠と蓑(みの)、腰鉈(なた)、腰鋸(のこ)、それから鉞(まさかり)を袢纏(はんてん)の上からひもで締める。蓑は汗をはじき動きやすい上、おぼれた時に浮き代わりとなる。わらじを履いて舟に乗り、腰にも新しいわらじを縛っておく。
 作業は、川倉(かわぐら)という大型牛枠(うしわく)を作り、長い竹蛇カゴを編んで石礫と一緒に舟に載せ、棹(さお)をさしながら川倉に載せて押さえ込む。川倉を作ること、竹蛇カゴを編むこと、棹をさして長い舟をあやつること、竹蛇カゴの網の目より大きな石を巧妙に投入して蛇カゴに作り上げること、そして川倉を巧みに据え付ける高度技術を持っていた。


工事中の水豊ダム(朝鮮)
『間組百年史』より

 黒部川の雪解け水は冷たい。水の中で作業をするため、寒さしのぎに醤油を樽で用意して、コップで飲んで川に入った。醤油を飲むと体が火照る。2時間ぐらい我慢した者もいた。
 1947年9月、間組の神部満之助社長が率いて利根川にやってきた黒部川の川鳶50人はいずれもそうした熟練者たちだった。
 『間組百年史』は語る。
 「発注を受けた翌日、大利根川出張所を設置し、所長に大井川を締め切った三枝知良理事、次長には朝鮮の鴨緑江(水豊ダム)を締め切った中村x治郎理事、配下には井上貞次郎、木村彦治らを擁し、最高の布陣で工事に臨んだ。現場は出合帳場であり、当社、鹿島組とも死力を尽くした」
 決壊口は狭めていくに従って水勢が増す。このため締め切りは最後の局面が一番難しい。黒部の川鳶たちが最後の閂(かんぬき)をかけた。
◇  ◇  ◇
 蛇カゴや牛枠で濁流と格闘中に、GHQ埼玉県司政官のライアン中佐が、現地を視察に訪れた。関東土木出張所で渉外に当たっていた担当者は、蛇篭の仕組みについての質問を受けたが、適訳が思いつかず、蛇篭をとっさに「スネーク・バスケット」と訳した。ライアン中佐は「スネークで利根川を止めるのか」と目を丸くし、真顔でうなずいていたという。(『土木技術』65年8月号)


「治水の日」慰霊式典
(埼玉県加須市 2017年9月16日)
 初出は建設通信新聞7月20・24日、8月7日付け連載「カスリーン台風から70年」(佐藤智昭)

*1:『高橋嘉一郎君の思い出』(山海堂)
*2:『河川技術「川とび」座談会』(北陸地方建設局富山工事事務所、1999年1月20日)、『ほっとほくりく』(北陸地方整備局、2004年9号)、『河川文化を語る会−司馬遼太郎の河川観(講師・宮村忠)−』(日本河川協会、08年12月15日)
[関連ダム]  湯西川ダム  五十里ダム  川俣ダム  川治ダム
※この記事は、2017年11月27日に建設通信新聞に掲載されたものです。
ご意見、ご感想、情報提供などがございましたら、 までお願いします。
[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]