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1 水特法の制定・施行と国土庁の発足

 1973年は昭和48年です。この年人々の記憶に一番残ったことは何でしょうか? 巨人の9連覇達成と言う人もいるでしょうが、100人中95人までは第一次オイルショックの発生と言うでしょう。 

 1年前の1972年7月に田中内閣がスタートしました。田中内閣といえば日本列島改造論ですが、この頃は大都市圏への人口集中に加え全国的な開発ブームがあり、各所で水資源の不足が懸念されました。勿論公共事業として起業者による補償がなされた上でダムが建設されていましたが、水没地域の住民は下流受益者と比較して不当に扱われているという思いを高じさせており、それは社会的問題とも認識されました。水没地域周辺の環境整備によってダムの建設促進を図ること、即ち水源地域対策特別措置法(以下「水特法(すいとくほう)」と呼びます)の制定はいわば国民的要請でした。

 水特法の公布は1973年10月17日。翌1974年2月21日に同法施行令が公布され、法律、政令ともに4月11日から施行されました。この時実はまだ国土庁はありませんでした。内閣の看板の「国土総合開発庁」構想が、オイルショックで一変した経済情勢のために「国土庁」として結実したのは、2か月半後の6月26日です。同時に水資源局水源地域対策課が設けられ、水特法を所管することになりました。

 第1回のダム指定は、それから1か月も経たない7月20日です。浅瀬石川ダム(岩木川水系の1級河川浅瀬石川の建設省直轄ダム 青森県黒石市、平賀町の一部が水没)他19ダムと指定湖沼水位調節施設である霞ヶ浦の計21施設が政令で指定されました。これらは皆当時既に着手されていたものであり、水特法の制定・施行が待ち望まれていた訳です。ついでですが、この年の暮れには田中総理退陣という誠に慌ただしい1年でした。

 この30年、いや最近10年間でも宮ケ瀬ダム(神奈川県)等が竣功し、長良川河口堰が本格運用されるなど治水利水の安定性は大きく向上しました。ダム事業の長期化は宿命とはいえ、社会情勢の変化は誠に激しいものです。


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