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《@ダム水没者の苦悩とその心情を描いた作品》

 最初は、ダム水没者の苦悩とその心情を描いた作品である。

 多摩川上流の小河内ダムを舞台とした社会派作家石川達三の『日蔭の村』(新潮社・昭和12年)は、ダム問題の原点を浮き彫りにした最初の本格的な長編小説である。ダムに水没する側の小河内村長、村民らの心情とダムを造る側の東京市水道局拡張課長らの行動を追う。

 小河内ダム建設計画が発表されると、多摩川下流の神奈川県稲毛・二ケ領用水組合との水利上の係争がおこり、村民らは4ケ年間、この問題に翻弄され、不安な状態が続く。さらには村民の出征もからめながら昭和6年の満州事変を社会背景として、昭和11年のダムの建設計画の決定までの状況を描いている。


 昭和10年8月、北原白秋は小河内村鶴の湯を訪れて、<棲みがてぬ 山の山女魚の なげきより 人界は悲し しかもこの村>と村民に対し、同情的に詠んだ。
 午後3時ともなると、小河内村一帯は日蔭となってくる。ダムによって次第に過疎化が進む。一方大都市東京はダムによって益々栄えていくことになる。「日蔭の村」はその対極として陽のあたる東京の発展を象徴している。農山村と大都市の相剋を写し出す。

 小河内ダムは、昭和13年11月に着工、コンクリ−ト施工設備、ダム基礎掘削まで施工したものの太平洋戦争が始まり物資不足も重なり、昭和18年10月一時工事を中断、ようやく昭和23年9月に工事を再開して、昭和32年11月に竣工式を迎えた。着工以来19余年の歳月を要した。小河内ダム建設に尽力した東京市水道局長原全路、水道局拡張課長小野基樹は、原善郎、大野基寿としてこの小説に登場している。

    ◇

 小河内村民の傷みを分かちあえるかのような、井伏鱒二の『朽助のゐる村』(新潮文庫・昭和28年「山椒魚」に所収)は、ダムに沈む村民朽助老人を同情的に描く。



 さらに、久保敦子の『石小屋』(批評社・昭和63年)は、神奈川県中津川の宮ケ瀬ダムを舞台とした短編小説である。

 都内から水没することとなる「石小屋」へ移転してきた知佳は、弥助老人と出合い、自然な豊かな暮らしがやがて喪失していくであろうその心情を思いやる。移転 774世帯、1104名の人たちが故郷の地を去り、平成12年12月宮ケ瀬ダムは完成式を迎えた。
 元宮ケ瀬中学校校長熊坂實の『詩集 追憶 ああ宮ケ瀬』(自費出版・平成9年)から<調印式>の詩を一部引用する。

「ダム賛成の叫びも
 ダム反対の憤りも
 条件派の説得も
 みんな宮ケ瀬の将来を考えての
 声 声 声であったのだ
 今日からはお互いの考えは捨て
 自分の生活設計と
 宮ケ瀬の未来をどうするか
 みんなで手をとりあって考えて明日に生きよう
 明日にむかってがんばろう」

    ◇

 水力技術百年史編纂委員会編『水力技術百年史』(電力土木技術協会・平成4年)によると、第1章 水力発電の変遷のなかで、只見川水系の電源開発の歴史について次のように記してある。

「わが国有数の電源地帯である只見川は昭和3年からようやく開発の手が入ったが、河川一貫開発の構想は第3次発電水力調査時代から日発東北支店によって練られてきた。昭和23年に日発から奥只見、田子倉の2大貯水池を中核とする只見川の本流一貫開発の計画が発表されると新潟県は奥只見から分水する計画を打ち上げ長い論争が始まることとなった。(中略)ちょうど電源開発促進法が施行され電源開発・が創立された頃で、昭和27年9月の電調審で只見川が電源開発・の調査河川に指定され、本流、分流案論争はますます激しく、昭和28年6月22日の電調審で初めて取り上げ、両県知事の意見が聴取された。それから数日を経て29日に再び俎上に上げ、全体計画の優劣について詳細な議論がなされた。こうしてようやく7月22日の電調審で本流案を主体にした全体計画が決まり、そのうちの一部である奥只見、田子倉、黒又第一の開発地点が決まり、一応本流、分流案論争にピリオドが打たれ、只見川の一貫開発が始まることとなった」

 田子倉ダム地点は、福島県南会津郡只見町田子倉、奥只見ダムは同県南会津郡檜枝村駒獄である。

 この両ダムの建設をめぐる人間模様を著名な作家が小説化した。

 城山三郎の『黄金峡』(中央公論社・昭和35年)は、ダム補償問題を真正面から捉え、ダム現場にて徹底的な取材に拠る作品である。
 水没者喜平次老人とダム所長織元との交渉を中心に、純朴な村民たちが、ダム絶対反対と言いながらも、逆に補償金の期待への奇妙な錯綜する心理状況と、補償契約後は、次第に華美なる生活へと変化していく、その人間の生きざまを描く。


『「絶対反対なんですね」今度は織元は念を押すように云った。
 「ンだ」「ンだ」の声が返ってくる。
 「困りましたなあ。あんた方は絶対反対と云われるが、われわれは
  絶対につくらにゃならん」
  人垣の表情がいっせいにけわしくなった。
  喜平次もまたダムには絶対反対であった。発電関係者を見ること
 さえいやであった。
  ゴ−ルドラッシュがはじまった。
  一戸あたり平均四百万という山林水没補償金の支払いがはじまる
 とほとんど同時に行商人の群が戸倉へなだれこんだ。』

 <補償解決近きに 洋服屋入り来たり 二十八着注文とりてゆきたり>と新海五郎は詠んでいるように、少しずつ水没者の補償交渉がまとまっていく。だが、喜平次は頑強にも抵抗していく。水没交渉の最後のつめの段階で、突如織元所長はダム現場所長の職を解かれ「東京本社役員室詰」の閑職へ左遷を命ぜられる。ようやく、反対していた喜平次も補償契約に調印する。

 しかしながら、喜平次は54年型クライスラ−の外車に乗って、村の峠にさしかかったとき、吹雪のなかの川へ、車もろとも転落して死ぬ。悲しいやるせない結末であるが「喜平次の頬を一瞬だが、残忍で幸福そうな笑いがかすめた」と、この小説は結んでいる。村で生活をしながら余生を送り、古里で死にたかったであろう喜平次の意志を表現している。

 城山三郎は、そのあとがきでしみじみと述べている。

「主題のひとつは、金銭というものが、いかに人間を動かし、人を変えていくか、というところにある。(逆に金銭に動じない人間の魅力もある)(中略)だが金銭による充足には、とめどがない。それまで考えもしなかった欲望が、次から次へとふくらみ、足もとをすくう。そして最後には、土地を失った悲しみだけが残る、ということになりかねない。沈める側の人間にも、もし心があれば、それがわかる。
 この作品に登場する所長は、農民たちへの人間的な共感を抱えながら、彼なりの誠意と努力で奔走する。この種の人間がこれほどするならと、人を動かすだけのものがある。
 土に生きる人間のみずみずしさと、黄金の冷やかな軽さ、したたかさ。黄金が舞い狂う谷間は、しかし、ここだけではないはずである。黄金に向き合って、得るもの失うもの何なのか。心の中にぽっかり谷間に穴をあけ、空しく吹きぬける風の音だけが聞こえるということを、おそらくだれも望んではいないであろうに。」

 日本が高度経済成長へ向かっていくとき、この小説はこれからの日本人が、金銭至上主義へ進むことを暗示しているかのようで、やりきれないと同時に考えさせられる作品となっている。

    ◇


 同様に、田子倉ダムを舞台とした小山いと子の『ダム・サイト』(光書房・昭和34年)は、先祖代々ゼンマイ採りなどて暮らす山村がダム開発によって一変する様子を描く。主人公のますみは、茂治という結婚を約束した恋人がいるが、ダム問題がおこると茂治は交渉役員に押され、だんだんと純朴な精神が失われ、ますみから離れていく。若者の心まで変化していく。

 この小説は、「ダム・サイト」、「先進地」、「民選知事」、「紅うら」、「ダム・サイト内輪話」の構成をとっている。ダム・サイト内輪話のなかで、昭和29年10月、北原武夫、臼井吉見との対談において、この小説は失敗作と批評したことから、由紀しげ子、吉屋信子、丹羽文雄らがこの作品を擁護した。ダム小説では文壇論争がおこった非常に珍しい作品である。


 なお、田子倉ダムは昭和28年着工、昭和34年に完成、奥只見ダムは昭和29年に着工、昭和35年に完成をみた。両ダム併せて最大出力74万Kwの電力を生み出した。企業者は電源開発(株)、施工業者は前田建設工業(株)である。


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