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《A-1ダム建設に挑む技術者たちの人間性を追求した作品(その1)》

 第二は、ダム建設に挑む技術者たちの人間性を追求した作品である。

 前掲書の『水力技術百年史』によると、黒部川水系の水力発電開発の歴史について、次のように記してある。

「黒部川に着目し、初めて開発の企業化のための調査が開始されたのは、日米合同アルミニュウム事業を計画した、高峰譲吉博士による大正6年(1917年)の踏査からである。同事業計画の進展と挫折を経て大正11年(1922年)から日本電力が黒部川の開発を始めた。昭和2年(1927年)の柳河原発電所の完成を皮切りに、昭和11年(1936年)に下流の愛本発電所、上流の黒部川第二発電所そして昭和15年(1940年)に高熱隧道で有名な黒部川第三発電所と、下流から順次上流へと電源開発が進められた。(中略)この間、日中戦争、太平洋戦争の勃発により、黒部川の電源開発の権利は日本発送電へ移り、さらに電気事業再編成により関西電力へと引き継がれた。(中略)世紀の大工事として注目を集めた黒部ダム(昭和38年、H=186mは我が国最高、関西電力)が完成(発電所昭和36年)し、これにより黒部川の年間調整が可能となり、黒部川の流況が改善されたので、これを有効に利用すべく、当初の開発順位と逆に上流から下流に向けて昭和38年に新黒部川発電所、昭和41年新黒部川第二発電所が相次いで開発された。」

    ◇

 吉村昭の『高熱隧道』(新潮文庫・昭和50年)は、昭和11年8月着工、昭和15年11月完工の黒部第三発電所(仙人谷ダム)建設工事における第一工区の難工事を描く。

 この工区は、黒部渓谷の上流、仙人谷ダム、取水口、沈砂池の建設と仙人谷から下流方向へ阿曽原谷までの水路、軌道トンネルの掘鑿工事である。

 この軌道トンネル全904mの掘鑿に2年4ケ月かかっている。岩盤温度65度から、掘鑿の進行にともなって 165度まで上昇する。火薬取締法の規定では40度が限界となっているにもかかわらず掘り進む。死と背中合わせの自然と人間との壮絶な闘いである。


『六月五日、阿曽原谷側坑道の切端にさし込んだ 150度温度計が割れた。岩角にあたって割れたのかも知れぬというので代りの温度計を挿入してみたが、それもたちまち砕けた、藤平は顔色をかえた。そして、ただちに富山市から 200度温度計を数本とり寄せ測定してみると水銀柱は呆れたことに摂氏 162度まで上昇していた。
「覚悟の上だ、たとえ 200度になろうと 300度になろうと掘りすすむんだ」
根津は荒々しい声で叫んだ。』

 昭和12年7月7日の日中事変の状況とはいえ、絶対的に電力エネルギ−が必要とした日本にとっては、全ての犠牲のうえでのダム造りであったことがその背景にある。全工区での死者は 300名を越えた。雪崩事故や高熱隧道工事で朝鮮人労働者も含む 165名の犠牲者が出ている。

 しかしながら、この小説の解説で、久保田正文は<自然と人間とのたたかいのテ−マに、ほかなるまい>として、<かれには、おさえがたい隧道貫通の単純な欲望があるだけである。発破をかけて掘りすすみ、そして貫通させる、そこにかれの喜びがあるだけなのだ>と小説のなかから引用しながら結論づけている。だが、この結論だけでは単純に言い表せないものがある。全てをなげうって、命さえなげうって工事を完遂させる姿には、もっと深遠なる人間の業のようなものが存在すると思われてならない。それは、恐らく技術者、労働者たちでさえも意識されない仏教的な「利他行の精神」が潜んでいるのかも知れない。

    ◇



 関西電力(株)が社運をかけた黒部川第四発電所(黒四ダム)の記録、木本正次の黒部の太陽(講談社・昭和42年、信濃毎日新聞社 (文庫版) ・平成4年)は、昭和31年の着工準備から昭和33年までの大町トンネルの破砕帯突破までを描く。登場人物は全て実名で書かれており、迫力があり、人間性が素直ににじみ出ている。

 関西電力社長・太田垣士郎の黒四ダムにかける<信念>と<その人間性>を追ってみる。

『(電気は要る、生活のためにも、産業のためにも、電気が空気や水のように要る。それは単なる産業といったものではないのだ)太田垣はそう考えていた。しかも黒四の発電力25万8000Kwというのは当時の滋賀県、奈良県の全電力需要をまかなうほどの大きなものなのだ。』
『「私は戦争直後に一カ月間に長男と長女に先立たれました。破砕帯の時にいつも思ったのはそれでした。私個人にのみに即していえば私は失っても最も惜しいものは現に失っている。この上、何を失ってもそれ以上に惜しいものはない」』
『太田垣も平井も、牧田(熊谷組)に対してではなく、破砕帯突破という大きな仕事に対して頭を下げ、また腕をまくらんばかりに詰め寄っているのだ、つまり彼らは、仕事に対して、なりふり構わず男の一切を賭けているのだ、ということが牧田には切々と胸に泌みて理解出来るのだ。』
『破砕帯は、−それが克服され得るものである限り−まさに格好の試練なのだった。困難は組織に闘志と団結を生むし、困難の克服は、また高い自信を植えつけるのである。悲しむことでも、くやむことでもなかった。』

 やがて、毎秒 659リットルもあった湧水が次第に減水となり、ハイドロック工法や掘削工法が施されて、湧水を止め、シ−ルド工法によって破砕帯を突破し、大町トンネルが貫通した。昭和33年5月31日関電トンネルの開通がなされた。後に、牧田甚一は「ついに非科学的だと笑われるかも知れないが、愛媛県の大山祇神社に出水の防止、工期内安全遂行の祈願をするに至った」と、この書の「黒四と私」で述懐している。

 その後、黒四ダム工事は5年の歳月が続けられ、昭和38年6月に竣工式を迎えた。ダム完成9ケ月後、昭和39年3月16日、太田垣士郎は脳軟化症で満70歳の生涯を閉じている。


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