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《Bダム建設に真正面から対峙した作品》

 第3に、ダム建設に真正面から対峙した作品である。

 山国の日本では近世以降木材を、大量に安全に運ぶために筏を組み、筏流しの方法が各地の河川で盛んに行われてきた。近代には、コンク−トダムが造られるようになり、木材川流しの流送に、著しく障害となってくる。
 水力発電会社と慣行流木権を持つ木材会社との争いが、庄川における小牧ダム(富山県東礪波郡庄川町大字小牧字矢ケ瀬地点)の建設の過程でおこった。いわゆる「庄川流木事件」(庄川ダム争議)である。庄川は岐阜県北部の飛騨地方、白川郷、五ケ箇山村を北流し、富山県西部を流れ、富山湾に注ぐ。下流には広大な扇状地を形成する。全長 115キロである。この庄川流木事件について、吉村朝之著『源流をたずねてV−庄川水系』(岐阜新聞社・平成15年)から次のように引用する。

「庄川の流れは、林業や漁業そして農業の水として個々の地域や産業がそれぞれに水に使う利権を持って成り立っていた、しかし1916年(大正5)、庄川水力発電株式会社が発電を目的として水利権の申請を国に提出したことで、庄川の流れに依存してきた各方面がこれに強く反対し、水利権をめぐって激しい論争がはじまる。1925年(大正15)に富山県で小牧ダムの建設工事がはじまると翌年、資本金 506万円にして、本社を東京に置き、支店を高山、名古屋、富山県青島に持ち、出張所を富山、岐阜に持っていた飛州木材株式会社と、長年その流れに依存してきた荘川村や白川村、そして清見村の飛騨三カ村をはじめ、富山県青島村と利賀村などがこれに加わり「反堰堤築造運動」を展開していった。

 飛州木材会社は庄川における「慣行流木権」を持ち、庄川上流と森茂川、そして六厩川一帯、清見村、荘川村、更には白川村の山林からも木を伐採し、庄川を流す「流送事業」を一手に引き受けていた会社であった。
 この流送の作業には、源流から下流までの全流域で多くの人が携わり、農閉期の大きな収入源として生計を助けたばかりでなく、現金収入を生む大きな産業であった。
 そんな飛州木材株式会社は電力会社が水利権の申請を提出したその翌年、富山県をはじめ庄川水力電気株式会社と昭和電力株式会社(大同電力)を相手取り、水利権をめぐる訴訟を起こす。この訴訟の提出で、ダム建設の反対争議はさらに大きくなり、当然ながら流域の二三の市町村をはじめ県や国、政党や中央政財界までも巻き込み、併せてマスコミを媒体として大騒動に発展していった。(中略)この事件は工事が完了し、発電が開始される1930年(昭和5)まで続くが、結局、ダムを建設し、それによって生じる損害を補償金で解決するといった方向で終結に向かった。(中略)補償として飛州株式会社とその関係者には、郡上郡白鳥町から荘川村牧戸まで自動車道路を造ることで調停和解が成立した。」

 この事件について、石山賢吉の『庄川問題』(ダイヤモンド社・昭和7年)は、虚構を用いずに実態のままに追求し、全ての登場人物を実名で著し、迫力を感じた。この書によると、庄川事件が起こる以前の、電力会社と流水減少に伴う流域住民との争いが生じている。明治40年名古屋電燈会社の立花発電所(岐阜県美濃市)に係わる「長良川事件」、大正5年大同電力の賤母発電所(岐阜県坂下町・長野県山口村)に係わる「木曽川事件」、大正13年日本電力の瀬戸発電所(岐阜県下呂町)に係わる「益田川事件」についても著わしている。

 「長良川事件」については、水路式の立花発電所が建設されると「取水口から発電所までの約8Kmの間に流れが止まって川原になる。鮎の産卵と木材の輸送が不能となる」との争いであった。林業家平野増吉がこの立花発電所建設に公然と反対し、電力会社と拮抗する。発電所完成後、発電所に至る約8Kmの流水は枯れてしまい、川原となってしまった。平野増吉の論理が証明された。名古屋電燈会社は経営者が福沢桃介に代わったときに、ようやく和解が成立した。その和解は「会社は郡有林涵養の為に三万五千円を寄附する事」、「会社は平野増吉に長良川事件に遣った実費一万七千円を弁償する事」で解決した。この解決策は、長良川の引用水量には一切触れていない。

 歴史は繰返すといわれるが、のちに、平野増吉は「庄川流木事件」に係わってくる。この事件については、高見順の『流木』(竹村書店・昭和12年)がある。実際に、この事件の中心人物平野増吉に取材し、なおかつ岐阜県郡上郡の地を歩いて書かれた短編小説である。
 さらに、庄川流木事件について、前書の『庄川問題』に基づき、フィクション形式で小説化した山田和の『瀑流』(文藝春秋・平成14年)は、現代のダム問題に共通するものがある。主人公柳瀬征一郎は、旅館の女将大沢由紀江との清く激しい恋に悩みながら、木材会社員の立場から、電力会社と木材会社との8年間の抗争事件について詳細に追っている。


 著者は、この事件の関係者にも取材し、公文書、訴訟文、判決文、さらには、大正15年から昭和9年の地元紙北陸タイムスなどの新聞記事、また土木関係、木材関係の雑誌など、膨大な資料を駆使された力作長編小説である。昭和初期の庄川ダム事件が、今日の平成の時代に蘇った。この書の奥書に「山田和は、1946年富山県砺波市に生まれる。少年時代を過ごした故郷の変貌ぶりがこの小説を書かせる動機となった」とある。
 なお、小牧ダムは、折からの経済不況、関東大震災、庄川流木事件などに遭遇し、また、資金調達の困難も乗り越えて、昭和5年に完成した。

    ◇

 昭和28年6月筑後川に大水害が起こり、建設省(現・国土交通省)は、水害を防ぐために筑後川上流に下筌ダム・松原ダムを施行した。このダムの水没者の一人室原知幸は、昭和32年から昭和45年の13年間、ダム建設における公共事業の是非を問い続け、公権を私権に係る法的論争を挑み、国家に真向から対峙した。室原知幸を主人公とした佐木隆三の『大将とわたし』(講談社・昭和51年)、松下竜一の『砦に拠る』(筑摩書房・昭和52年、講談社文庫・昭和57年)の作品がある。

 とくに、『砦に拠る』は、室原が下筌ダム地点に「蜂の巣城」の砦を築き、土地収用法に基づく行政代執行に立ち向かい、公務執行防害で逮捕されても、なお、数々の法的論争を続ける様子を描く。室原は、和解工作を図る熊本県知事や建設大臣橋本登美三郎とも会うことを拒んだ。この小説は、室原とダム所長野島虎治との確執を軸にすえ、室原の人間性を丹念に追求し、あるときは夫婦愛、親子の愛が伝わって、読みながら涙を禁じえなかった。昭和45年6月室原の死によって、遺族との間に和解が成立し、補償契約の調停がなされた。映画監督大島渚は、この「蜂の巣城」を取材し、25分間のテレビ番組『反骨の砦』(昭和39年)を制作している。激しく攻防を繰り返したダムであったが、今ではその面影はなく、静かな湖面を写し出す。

<下筌のダム満々と小春かな>(大坪イツ子)


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