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三峡ダムはなぜ実現するのか?

                                 長谷部 俊治
                                 みずほ総合研究所理事
(中国の輝きが支える)

 昨年の6月初め、中国で建設中の三峡ダムが貯水を開始した。よく知られているように、三峡プロジェクトは、長江(揚子江)の本流にダムを建設し、洪水調節水力発電、水上交通、灌漑などの便益を得ようとするものであるが、ダムは1993年に着工され、完成は2009年の予定である。
三峡ダムは重力式コンクリート造で、コンクリート総容量約2800万立方メートル(日本最大の重力ダム、宮ヶ瀬ダムの14倍弱)という規模であり、洪水貯水容量222億トン(日本最大容量の奥只見ダムの37倍)、年間発電量847億kwh(日本の水力発電量全体にほぼ等しい)、水位差113メートルの船舶航行用ドックを備え、移転が必要な人口は約130万人という巨大なプロジェクトである。

 この事業は、国際的な議論を呼んだ。長江の環境が破壊される恐れがある、三国志の舞台その他の有名な史跡名勝が水没する、大地震時に堤体が危険にさらされるのではないか、濁水によって発電計画に支障が生じるはずだ、移転住民130万は強制的な移住を強いられるなど圧政のもとにある等々の指摘が続発し、国際的な圧力を避ける意味もあり、世界銀行などは事業への関与を避けた。しかし中国政府は、事業費約218億ドル(最終的には300億ドルにのぼると予測される)を自前で調達して着々と事業を進め、さらに三峡ダムで開発した水資源を乾燥した北部中国に送る運河網計画(事業費約600億ドル)を検討中という。

 やや強引とも言える事業の進め方を批判するのはたやすい。実際、国土環境の大きな改変は、アスワンハイダムの建設やアラル海流域の灌漑事業のように、思わぬリアクションに見舞われる。三峡ダムがその例外であるとは限らない。しかも、いったん改変された環境はもはやもとには戻り難い。未だに議論は残っているのである。
 だが、国土の開発とはこのようなことだとつくづく思う。中国の将来を展望するとき、富が集中する長江下流域の治水の充実、膨大なクリーンエネルギーの供給、水資源の南北調整などによる地域の補完関係の構築などが不可欠で、その必要を満たすという大きな目標が事業の推進力となっている。国家が責任を負って進めるプロジェクトとして、意志決定は揺るがず、強力な指導力が発揮されている。プロジェクトに、大局観と強い意志が備わっているのである。

 プロジェクトの評価に当たっては、当然のこととしてその費用対効果が分析され、利害得失や投資効率が吟味される。そして、長期的で巨大なプロジェクトであるほど不確実性が増して、リスクが拡大する。事業を分割して少しずつ進めるという手法や、ステージごとに判断するなどの工夫はあろうが、ダム建設のようなプロジェクトはオール・オア・ナッシングの意思決定を迫られることが多い。経済的な損得によりすべてを評価しきれるわけではないし、議論を積み重ねても未来が不確実さを孕んだままであることに変わりは無い。日常的な判断の延長で国土開発を捉えることには無理があるのだ。

 三峡プロジェクトを推し進める力は、このような経済的な評価とは別の、将来に対するビジョン、しかも危機感に裏打ちされたそれであろう。単に便利さや経済的な利益を求めるだけでは飛躍する覚悟は生まれない。冷静な評価とともに、ビジョンを描く高い構想力と、それを受け止める深い感性と、ビジョン実現への強靭な意志の力が組み合わさることにより、長期的で抜本的なプロジェクトが実現していくのである。
 中国には、そのような構想力、感性、意思の力が備わっているということである。三峡プロジェクトの背景に、中国社会の輝きを見る思いがする。

(成熟社会のプロジェクト)

 さて、日本も同じような社会的な輝きを見せたことがあった。高度経済成長期がそれに当たるということに異論は無かろう。この時期には、国土開発への取り組みが果敢に展開された。多目的ダムの建設を核とする総合開発事業もその一つであった。蜂ノ巣城事件のような利害を超えた本質的な問いかけ(注1)もあったが、事業を支えたのはビジョンへの信頼であったろう。

 だが、そのような信頼関係は今の日本社会には希薄である。長期的なプロジェクトについても手続きや基準への適合が優先されるため、ビジョンの実現に向けて強い意志を固め、社会経済的な摩擦を恐れず、不確実さを抱えたままリスクを負うという姿勢を貫くのは困難である。社会的な合意を得ることは極めて大事なことであるが、その合意を支える価値観が、将来への展望よりも利害の調整を重視する方向にシフトしたからである。現状への自足やゼロサムゲームの情況がそのような社会的雰囲気を醸成しているのであろう。

 また、日本の国土開発自体が大規模なプロジェクトを必要としないという点も見逃せない。社会的な統合を維持するうえで巨大な施設を運営する必要性が乏しいのである。国家の命運が人工的なシステムの構築・運営、たとえば万里の長城、ローマの道、大陸横断鉄道、長大な導水路などのような巨大プロジェクトにかかっているような情況は、日本の社会には無縁であった。城壁に囲まれた都市が皆無であるのも、ジェノサイドを伴うような熾烈な戦いを経験しなかったのも、国土の置かれた環境のゆえである。
 日本の自然は、人工的な自然改変を徹底しなくとも安定した生活を維持できる条件を持ち続けたのである。ビジョンの構想力、社会の将来を直観する感性、行動への強靭な意志を鍛えるような機会に乏しかったと言ってよい。

 したがって、三峡ダムのようなプロジェクトを日本で企図するのは筋違いである。ビジョンを一気に実現していくような大規模プロジェクトよりも、地道に問題に取り組む持続的なプロジェクトのほうがより実効性が高い。ダム建設との関連で言えば、地下水を含めた水循環のトータルなマネジメント、水源地域の荒廃の防止と涵養、山村など過疎地の社会的な自律などの課題は、いずれも国土開発プロジェクトとして展開することが可能である。詳述する用意は無いが、これらのそれぞれについて多面的な可能性が秘められていると考える。

 水循環のトータルなマネジメントは、自然生態系に即した社会経済を構築することにつながり、流域を単位にした社会の運営を促そう。水利用と水辺環境を健全に保つ視点から地域社会を見直すのであるが、例えば同じ流域に属すことによる運命共同体的なつながりを活かす工夫など、そこから生まれるニーズは奥深いものがあろう。また、水源地域の荒廃防止と涵養は、ダム機能を保全するためにも大事な事業である。この場合に、問題を砂防事業や森林管理の充実だけに限定せず、水源地域という空間の意味や機能を探ることにより、「開発か保全か」という単純な図式を超えた自然との付き合いの作法を発見する場となるのではないか。さらには、過疎地を自律的な社会として構築する課題は、福祉や地域経済の問題を引き受けることのできるコミュニテイの再建という、今後の日本を左右する大きな課題そのものである。

 大事なのは、このような課題への取り組みには産業的な展開が欠かせないということだ。水循環に関係する産業群は広大であるし、水源地を舞台に自然の力と人為とのバランスを保つには、生態系への理解に立脚した技術が必須である。過疎地の自律の実現は政府が責任を負うべき問題であろうが、社会運営を支える諸サービスの展開を担うのは産業であるはずだ。ダム建設で培った産業スピリットを発展させて社会的な課題と向き合えば、産業機会は満ち溢れているのである。

 成熟社会の輝きは待っていてもやってはこない。いまの日本にも三峡プロジェクトを支えるのと同様の力量が要求されているのである。プロジェクトの姿は違っても、それを支える構想力、感性、意志の力には共通のものがある。そしてその力量は産業活動を通じて鍛えられるのである。産業スピリットを失ったとき、社会は衰退していく。他国をうらやましく思わず、市場を開拓していって欲しい。
(注1)蜂ノ巣城事件とは、1964年前後に展開された、筑後川水系上流での松原・下筌ダム建設事業への実力行使を伴う反対運動である。その過程で、公共事業は、「理に叶い、法に叶い、情に叶う」べきである(室原知幸氏)との主張がなされ、「今すぐにでも失われようとする住民の利害と、将来にしかもたらされない公共の利益との価値交流」(下筌・松原ダム問題研究会編『公共事業と基本的人権』(帝国地方行政学会、1972年)より)が問われたのである。土地収用を強制執行することの是非を超えた、国土開発を進める場合の原理原則の吟味を迫った事件であり、これを契機にたとえば用地補償基準が閣議了解されるなど、公共事業を進める上でのしくみが整えられていったと考えてよい。

(参考)著者の長谷部 俊治氏の近著に、「建設投資の経済学」(日刊建設通信新聞社刊)があり、建設投資について、幅広い観点から詳細な議論をされています。
[関連ダム]  Sanxia[三峡ダム、Three Gorges ]
(2004年5月作成)
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