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《與一を巡る様々なこと》

 與一が懸念したように、現在、烏山頭ダムは土砂堆積が進み貯水能力は3分の2に落ちこんでいるという。與一は、堆砂を防ぐために、烏山頭ダムの上流に新たなダムを造ることを考えていた。

 上流のダムに関しては、昭和48年台湾最大の曽文ダムが完成している。ダムの堤高 133m、堤頂長 400m、堤体積 930万m3、貯水量7億 753万m3、満水面積17.1km2、ロックフィルダムである。


 財団法人ダム技術センタ−編集協力、川村光雄著『切手が語る世界の川とダム』(全国建設研修センタ−・平成9年)には、曽文ダム落成記念切手が掲載されている。
 そして、「曽文ダムは灌漑、発電、上水道、治水の多目的ダムで、洪水吐容量は 9,640m3/sで設計されている。
 この工事には日本の円借款が供与され、設計は日本工営と台湾のシノ・テック社、施工は台湾の榮民工程公司が担当した」と、記されている。
 さらに、昭和49年大甲渓の上流に築造された徳基ダム(堤高 180m、堤頂長 180m、貯水量2.47億m3)の施工には、イタリアのトル−ノ社と熊谷組とのJVでなされた。このように二つのダムには、日本人土木技師が係わっており、八田與一の意志が継続されているようだ。

   ◇

 横道にそれるが、八田與一は広井勇教授の門下生である。門下生には、青山士、宮本武之輔、増田淳、石井頴一郎、物部長穂、久保田豊と多くの人材を輩出している。新渡戸稲造、内村鑑三と札幌農学校で学んだ広井勇は、困難きわまる小樽港を築造し、その後、東京大学教授を勤めた。広井勇の生涯を描いた高崎哲郎著『山に向かいて目を挙ぐ』(鹿島出版会・平成15年)を読むと、広井勇、青山士は敬虔なクリスチャンであることがわかる。

 八田與一は金沢時代、熱心な仏教徒であった。この3人には、宗教心が根底にあり、大土木事業を達成に寄与した人類愛の精神が備わっていたと思われる。さらに、広井勇は単独渡米し設計事務所に勤め、青山士はパナマ運河の工事に従事した。このことは、3人とも国境、民族を越えた土木事業に携わり、現地の人たちに慕われる業績を残していることから立証できる。

   ◇
 上述のように、八田與一は昭和16年5月中国東北部の東南部古都吉林の上流20km地点に建設中の豊満ダムを視察している。

 このダムについては、松花江堰堤発電工事を記録(実録)した、内田弘四編『豊満ダム』(大豊建設・・昭和54年)が、当時建設に携わった人々の手によって、刊行された。この書は、豊満ダムの建設において、多数の中国の人たちが強制労働により、死に至ったという悪宣伝に対し、反論として纏められている。


    第1部 概説・水力発電計画    (本間徳雄)
    第2部 豊満ダム計画、工事    ( 同上 )
    第3部 悠久の豊満ダムは生きている(空閑徳平)
    第4部 豊満発電所電気設備の概要 (町田 元)
    第5部 終戦後の豊満発電所の状況 (田口正三)
    第6部 桓仁、鏡泊湖各発電所の概要 

 この豊満ダムの諸元は、高さ91m、堤頂長 1,110m、最大貯水量 125億m3、最大出力70万kwで、重力式コンクリートダムである。建設当時では東洋最大の多目的ダムであり、アメリカのボ−ダ−ダムに次ぐ世界的な規模のものであった。なお、水没戸数は 8,400戸となっている。

 昭和12年着工したが、昭和14年コンクリ−ト打設工事最盛期には、医療薬品が十分でなく、チフス、発疹チフスによる病死者が多発した。「労務管理の不手際に、中国人民に対しわれら日本人は陳謝しなければならない」と、そのまえがきに書かれている。
 昭和14年堰堤コンクリ−ト工事、発電所工事、昭和17年ダム仮排水路を閉塞、昭和18年4月豊満ダムの貯水位を従来の平水位より、17.5mとなり、長春、ハルピンへ送電を開始した。昭和20年8月コンクリ−ト打設量 210万・のうち28万・を残し、敗戦により、ダム全工事を中止したが、発電は続けられた。8月16日満州国は消滅、13年間の短命であった。ソ連兵が進入、ダムの配電盤の一部が撤去される。その後、中共軍が入ってきた。さらに、中共軍と国民党軍の争いとなり、国民党軍にダムはおさえられるが、再び中共軍がダムを支配するようになった。

 昭和28年の帰国まで、残留の日本の人たちの手によって、豊満ダムは操作、管理がなされ、守り続けられた。いまでも、稼働しており、発電、松花江の洪水調節、17万haの灌漑用水、飲料水、工業用水の役割を果している。さらに、松花江の平水増加による舟運にも寄与し、中国の人たちにとっては、重要なダムに変わりはない。人間だけではなく、ダムもまた、戦争に翻弄されることがある。そのようなことに思いを馳せながら、同時に安堵感を覚えた。

   <大陸に 在りし日遠し 黄砂ふる> (馬場久登) 

   ◇

 ダムの建設ではないが、もう一人台湾を愛した日本人がいた。八田與一が先輩として敬愛する土木技師浜野弥四郎(明治2年〜昭和7年)である。

 浜野弥四郎は千葉県佐倉の出身で、東京帝大工学部土木学科卒業後、東京大学において、お雇い外国人スコットランド人ウィリアム・K・バルトン(1856〜1899)の助手となった。その後、後藤新平の要請によって、二人で台湾の上下水道の施設を施工した。八田與一は、この水道工事に一時期従事している。これにより、台湾の上下水道の整備がなされ、公衆衛生の土台が築かれた。稲場紀久雄著『都市の医師』(水道産業新聞社・平成3年)には、バルトンと浜野弥四郎の、上下水道の事業に係わる軌跡を描き出している。また八田與一と浜野弥四郎の友情も探究されて興味が尽きない。残念なことに、バルトンはスコットランドに帰国することなく、明治32年8月43歳の若さで急逝し、東京・青山霊園に眠っている。日本のインフラの発展に尽くし、「日本上下水道技術の父」と呼ばれている。

 明治政府は、急ピッチに近代国家を建設するために、欧米の科学技術や文明を取り入れ、とくに、インフラの整備として、多数の外国人技術者を招聘した。オランダの水理工師ヨハネ・デ・レ−ケ(1842年〜1913年)は、明治6年来日、以後30年間の滞在に及んだ。その間利根川、木曽川、常願寺川、淀川、筑後川などの主要河川を歩き、河川工法の助言を行い、治水、利水事業の発展に尽くした。デ・レ−ケの業績を讃える銅像が、日本の河川関係者によって長良川河畔の船頭平河川公園に建立されている。日本は、明治維新以来、わずか 100年あまりで、世界の経済大国に成長を遂げることができた。このことは、インフラの土台を造りあげた、外国人技術者たちの指導力、技術力の賜物であることは確かだ。
 逆に、多数の日本の技術者が、今日、アジアを中心に国境を越え、国籍や民族を越えて活躍している。

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 終わりに、八田與一について繰り返すことになるが。『台湾を愛した日本人』の著者古川勝三は、3年間、台湾省高雄日本人学校で教えたとき、八田與一のことを知った。この書は、八田與一の人間性に魅かれて、綿密な調査に基づき、著している。のちに、土木学会著作賞を受賞した。出版元の、青葉図書(愛媛県松山市小栗6丁目3−23・電話089-943-1165)にて購入でき、ダム関係者には、是非読んで欲しい一冊である。八田與一の真摯な生き方は、これからの日本人の海外活動における指針となるからだ。


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