江川ダム
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《江川ダム》
「近くの梨山にのぼると すりばちの底のような江川の谷がみえる 馬見山のふところにいだかれ 小石原川が間をぬい 道が流れに沿っている この谷間 江川は ぼくたちの故郷」と、『江川−民俗資料緊急調査報告書』(福岡県甘木市教育委員会・昭和44年)の冒頭に、この詩がうたわれている。
江川ダムでは75世帯が甘木梨の産地、江川の里から離れていった。「戦争で戻って、ようやく落ちついてきたとに、今度はダム問題ばい」と困惑したある水没者の顔が想い出された。すでに、ダム構想は昭和29年ごろから話題になっていたという。
江川ダムは福岡県のほぼ中央に位置する甘木市大字江川地点に昭和47年8月に完成した。甘木市の中心地から北へ小石原川沿いに遡ると小京都と呼ばれる秋月の町並みが見えてくる。秋月は黒田五万石の城下町である。いまでは城跡は秋月中学校となり、周辺に黒門、長屋門、石垣の面影を残す。この秋月からさらに北東へ3キロ程小石原川沿いに上ると緑のすそのなかに、両筑平野用水事業の基幹施設、江川ダム(貯水池名 上秋月湖)が現れてくる。
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江川ダムは、我が国の高度経済成長を背景として、築造された筑後川初の本格的な利水ダムである。昭和35年9月池田内閣は「高度経済成長、所得倍増政策」を発表、総人口は 9,341万人と増加、NHKテレビのカラ−放送が開始され、我が国の経済は、まさしく高度成長へ走り出し、各都市の水需要が増大してくる。
昭和36年11月全国的な水需要に対処するために「水資源開発促進法」、「水資源開発公団法」が制定され、翌年5月ダム、水路、堰の水資源開発施設を建設、管理を行う水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)が設立された。 昭和38年10月北部九州水資源開発協議会(北水協)は、筑後川とその関連河川を含めた北部九州の効率的な水資源開発を促進することを目的として設立。この北水協は、福岡、佐賀、熊本、大分の各県、九州農政局、九州経済産業局、九州地方建設局、九州・山口経済連合会で構成され、北部九州水資源開発構想を提示し、水資源開発の促進を図ってきた。
昭和39年10月水資源開発促進法に基づき筑後川水系が、利根川、淀川についで開発水系に指定され、41年2月筑後川水系の水資源開発基本計画が決定され、その水開発の一環として両筑平野用水事業が示された。42年4月この事業は農水省より水資源開発公団が承継した。総事業費 113.8億円を要し、47年8月江川ダムの完成、50年3月事業の完了を迎え た。
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江川ダムの諸元は堤高79.2m、堤頂 297.9m、堤体積26.1万m3、総貯水容量 2,530万m3、重力式コンクリートダムで、施工者は西松建設(株)、(株)大林組である。 事業の目的は、 @小石原川、佐田川沿いの甘木市など2市3町約 5,900haの両筑平野に農業用水最大8.05m3/Sを、後述する寺内ダムとの総合利用により供給する。 A福岡市の水道用水最大 1.075m3/S、甘木市の水道用水最大 0.083m3/S、甘木市の工業用水 0.173m3/Sを供給する。 B水道用水3.65m3/S(福岡地区水道企業団 1.669m3/S、福岡県南広域水道企業団 0.777m3/S、佐賀東部水道企業団 1.065m3/S、鳥栖市 0.139m3/S)の必要補給量を寺内ダムと総合利用により供給している。
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この建設記録に関する両筑平野用水管理所編・発行『両筑平野用水』(平成元年)は、完成時に工事誌が刊行されなかったことを心残りとされた松岡洋次管理所長が、保管されていた資料に基づき急遽編纂されたものである。この書に昭和39年当時、江川ダムは寺内ダムとの総合利用の計画はなく、江川ダム直下における小石原川の春日頭着工、佐田川の黒川頭着工の設置による小石原川と佐田川との利用案であったことが記されている。 さらに、江川ダム有効貯水量曲線(S50〜H元)では、昭和53年5月福岡大渇水が生じたとき、江川ダムの貯水量ゼロ(S53年7月〜54年1月20日)の記録もあり、貴重な資料となっている。だが、用地補償の記載がないのは残念である。
江川ダムは筑後川水系における水資源開発の嚆矢であり、寺内ダムとの総合利用によって、両筑平野の農業基盤を確立し、さらには、甘木市を初め、福岡都市圏、福岡県南地域、佐賀東部、鳥栖市、基山町に対し、水道用水を供給する重要な役割を果たしてきた。このことを考えると、江川ダムの建設に伴い水没された75世帯の方々の恩を決して忘れることはできない。昭和47年以降毎年6月その恩に感謝するために、両筑平野用水事業の関係者によって、上秋月湖にて水源祭が行われている。
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