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2.布引五本松ダムの建設


布引五本松ダム

 兵庫県の水環境を考える場合、見逃せないのがため池である。古代条里制以来、多くのため池が築造され、現在(平成9年)51,164ケ所が存し、全国第1位を誇っている。これらのため池は瀬戸内型気候に属する少雨地帯の播磨地域と淡路島に集中しているが、ため池の多さは、干ばつや水害による人と水との闘いという緊張関係が続いてきたことを物語っている。さらに、明治期になると貿易港神戸市を中心に徐々に都市化が進み、新たな水との緊張関係が継続されてくる。

 明治22年神戸区、葺合村、荒田村の合併により神戸市が誕生した。このときの人口は 136,968人で、当時飲料水の大部分は井戸水に依存しており、夏季のみでなく、四季を通じて水不足の状態であったという。神戸市の地勢は、武庫の山々が海に迫る狭い斜面を東西に細長く延び大きな河川もなく、東に布引渓谷を流れる滝谷川、西に再度渓谷の再度川、さらに西には鳥原谷の石井川、天王川などの中小河川が流れ、播磨灘に注ぐ。

 神戸市のコレラ等伝染病の発生をみると、明治21年度〜25年度の患者数 3,884人にのぼり、そのうち死亡者は 1,889人に及び、死亡率は48.9%と非常に高かった。一方明治20年〜25年の火災発生は出火回数 120回、家屋 287戸が消失している。このように人口増に加え、衛生上、火災発生の観点からも、神戸市に上水道布設が熱望されていた。


布引五本松ダム

 明治25年神戸市は、お雇い外国人スコットランド人ウィリアム・K・バルトン(1856〜1899)を招き、水道布設の調査、布引水源地(布引五本松ダム)の踏査を行った。
 明治30年神戸市は、布引五本松ダムの建設に着工、吉村長策、佐野藤次郎らによって日本初粗石コンクリ−ト積の布引五本松ダムが明治33年3月完成し、給水を開始した。このダムの諸元は、堤高33.3m、堤頂長 110.3m、有効貯水量75.9万m3である。
 明治34年神戸市の人口 259,040人(給水人口62,021、給水率24%)から、明治40年 363,593人(給水人口 167,803人、給水率46%)と増加している。以上、神戸市の水道について、神戸市水道局編『神戸市水道70年史』(昭和48年)によった。

 なお、吉村長策と佐野藤次郎に関し、藤井肇男著『土木人物事典』(アテネ書房・平成16年)により、その業績を追ってみる。
 吉村長策(万延元年〜昭和3年)は、工科大学校土木科卒業後、長崎県技師に招請され、明治24年日本初の上水道専用ダム「本河内高部貯水池」(アースダム)、明治28年大阪市水道、明治33年前述の布引五本松ダムを各々完成させ、昭和元年土木学会長をつとめている。

 一方、佐野藤次郎(明治2年〜昭和4年)は帝国大学工科大学土木学科卒後、明治29年神戸市の技師となり、布引五本松ダムの設計を行い、吉村長策を助け、日本初のコンクリ−トダム布引五本松ダムを完成。明治44年千苅堰堤などの工事拡張を指揮、その後民間に移り木曽電気興業(後の大同電力・現中部電力)へ水力発電工事に従事し、大井堰堤を完成させている。その他に、豊稔池(香川県)、鳥山頭堰堤(台湾)の建設にも関与していることには驚く。

 このように、明治期吉村長策と佐野藤次郎の尽力によって、良港な長崎市、神戸市における水道用水専用ダム建設の嚆矢をみることができる。

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