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1.河川総合開発事業について

 河川総合開発事業は、河川にダムを造り、洪水調節を図り、開発した水(貯水)を導水路等施設によって水道用水、農業用水、工業用水、発電用水として多目的に利用する流域開発であるが、この発案者はナポレオン三世(1803〜1873)といわれている。
 宮村忠著『相模川物語』(神奈川新聞社・平成2年)に次のような文章がみられる。

「ダムをつかって河川の流量の調節を行い、有効利用を図ろうとする発想は19世紀中頃のフランスに芽生えた。ナポレオン三世が、その全盛時代に各国の権威者を集めて、ダム式によるフランスの四大河川の開発を調査させた。この大構想はナポレオンの失脚によって実現しなかったが、19世紀末期にこのフランスの河川開発調査研究に参加していた効果をいち早く発揮したのはドイツである。ライン川支川のル−ル川に11のダムを造り、オ−デル川には16のダムを建設した。
 その後、ナポレオン構想を最も大規模に採用して大きな成果を上げたのはアメリカである。15年間にわたる論議を経、1933(昭和8)年5月連邦議会はTVA(テネシー総合開発機構)創立の法案を通過させた。ミシシッピ川支川のテネシー川に連続したダム群をつくり水資源開発、水力発電、洪水調節、船の通航を含む総合開発事業を展開した」

 大正15年わが国ではダム式調節方法による河川総合開発事業を唱えたのは、東京帝国大学教授物部長穂(1888〜1941)と内務省技師萩原俊一(1890〜1978)の両氏である。
 この事業は産業の発展に伴い河川の治水と利水との調節を図りその目的を果たすことにあった。即ち河水統制事業であり、各河川で進められた。浅瀬石川の河水統制事業は完成したが、相模ダムを含む相模川河水統制事業は、太平洋戦争によって一時中断したものの、戦後工事を再開し、昭和22年竣工した経過がある。

 昭和26年河水統制事業は予算科目に河川総合開発事業と名称を変えた。昭和25年国土総合開発法、昭和27年電源開発促進法、昭和28年身替り建設費及び妥当投資額の算出方法に関する総理府令、昭和30年愛知用水公団法、昭和31年工業用水法、昭和32年特定多目的ダム法、33年下水道法、35年治山治水緊急措置法、治水特別措置法、36年水資源開発促進法、水資源開発公団法、37年新産業都市建設促進法が各々制定され、国土開発による水と河川に係わる法が整備された。昭和35年以降洪水調節を基軸とし、わが国の高度経済成長に伴って水需要に対応するための河川総合開発事業が軌道にのった。吉野川水系の総合開発事業も、吉野川上流に多目的ダム早明浦ダムの建設を中心として進められることとなる。

 以上、河川総合開発事業については、山内一郎編『河川総合開発と水利行政』(近代図書・昭和37年)に拠った。


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