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 子浦川は、その源を宝達山(標高 637m)の東に発し、志雄町字所司原地区まで北流し、それよりいくつかの屈曲を経ながら、西北に流れ、新宮川、向瀬川、聖川の3支川を合流し、子浦町に至り、邑知平野に臨み3856haを有し、子浦町下流では邑知平野の低湿地を貫流し、羽昨町にて羽昨川に合流、日本海に注ぐ延長15kmに及ぶ。

 戦時、樹木の乱伐により、流域は廃墟し、殆ど裸地状態で保水力が喪失し、昭和20年〜23年まで毎年のように水害が生じた。23年7月の台風は 750haの耕地と1200戸の農家に甚大な被害を及ぼした。このような水害を防御する必要性から、子浦川防災ダムが昭和25年12月に着手し、7ケ年を経て、32年3月石川県羽昨郡志雄町下り石地先に完成した。この建設記録について、石川県耕地課編・発行『子浦川防災ダム建設事業誌』(昭和32年)がある。

 子浦川防災ダムの目的は、水害を防止すること、農業における補給用水の確保、湿田による悪条件を取り除き、米麦増産と農業経営の安定に寄与する事業である。ダムの諸元は、堤高26.5m、堤頂長 146.5m、総貯水容量66.9万・、型式はアース式ダムである。起業者は石川県(子浦川防災土地改良区)、施工者は東亜道路工事(株)、事業費 1.5億円である。なお、用地取得面積は 7.6haとなっている。

 工事の特徴について、水野外雄所長は「本ダムの生命である洪水水門の計画により、全国初めての二連式を採択し、築堤工事にゾーンタイプとし、中心に鋼土にて行った」と述べている。一方、膨大な土堰堤盛土工事を短期間に施工できたのは、重機械の力が大きかったという。

 このダムの完成を祝って喜びの歌がつくられた。

みなもと能登の宝達山
流れも清き 子浦川に
玉の汗してきずきたれ
北陸一の そのダムを

七年余りの歳月に
人の力を集めれば
太古の流れ せきとめて
濁流しずめ 荒るるなし

(作詩・山本清二、榎本松三郎、高本正雄 合作、作曲・百瀬三郎)

 この歌には、子浦川流域農家1200戸の農民たちの感謝の念があふれている。
 治水の効用があってこそ利水も生きてくる。その後、各々の用水組合の統合と合理的な水利用が進むこととなった。

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