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2.昭和36年の大水害

 昭和10年天竜峡から下流8km地点に水力発電用の泰阜ダムが完成した。しかし、天竜峡は狭窄部を形成していることから、天竜川上流部3地区(川路、龍江、竜丘)に対し、出水により天竜川の水位が上昇し、頻繁に水害をもたらすようになった。


『天龍川川路水防史続編』

 とくに、昭和13年、15年、25年、28年、32年、36年、45年、58年の水害は大きな被害を及ぼした。後述するように、昭和36年<三六災>は、伊那谷地域に集中豪雨により大災害を及ぼした。このため、国、長野県、飯田市、中部電力は「天竜川の治水」を図り、紆余曲折を経て、ようやく平成14年築堤、河川改修等による天竜川上流部地区治水対策事業が完工した。ここに天竜川竜峡地区の川路の人たちが誇りとしていた日本三大桑園(7万3000ha・昭和10年)は姿を消していった。(飯田市川路水害予防組合編・発行『天龍川川路水防史続編』 (平成15年) )

 天竜川伊那谷では忘れてはならない大水害が起こった。それは、<三六災>(さぶろくさい)と呼ばれる水害である。昭和36年6月27日〜28日にかけて梅雨前線の集中豪雨は悪夢の一夜となった。飯田測候所では27日に観測史上最大の日降雨量 325mmを記録している。長野県下の被害は、死者 107人、行方不明者29人、負傷者1164人、家屋全・半壊1522棟に及んだ。この水害について、松島信幸著『伊那谷は生きている』(天竜川上竜工事事務所・平成4年)で、実際の体験から次のように述べている。

【川は土地をけずって谷をつくる働きがあります。この働きを川の浸食とよんでいます。天竜川は伊那谷を浸食したのでしょうか。
 ”暴れ天竜”とよくいいます。天竜川は暴れたとき何をするか。私はこれまで何回もその姿を見てきました。最大だったのが゛三六災害゛です。そのとき、天竜川が土地をけずり、谷をつくるのはあまり見ませんでした。その反対です。山から大量の土砂が押し出してきて、天竜川の河床は見る見る高くなっていったのをはっきり見ました。天竜川が竜のようにうねって、川が高くなっていくのを驚異の目でみつめました。私はそのとき、高森町の惣兵衛堤防で必死の水防をしていました。天竜川が土砂をどんどん下流に運んでいるうちはむしろ安全でした。ピークが少し過ぎ、水位が下がりはじめた頃です。突然に天竜川が土砂の運搬を止め、見る見る天竜川の川底があがりはじめました。竜が背中を持ち上げたといったらよいでしょう。あっという間に天竜川は高くなり、水は低いほうに流れ出し、苦もなく堤防を乗り越えて氾濫がはじまりました。
 天竜川の災害は浸食ではありません。その反対、土砂を運んできてどんどん埋めていく、埋立型の災害です。
 有名な正徳5(1715)年の未満水というように、伊那谷の先人は洪水のことを゛満水゛といいました。満水というのは、伊那谷の災害の姿を実によく言い当てています。】

 さらに、久保田稔著『天竜川とともに−その地形・地質と激流に挑んだ人々−』(中日新聞社・平成13年)によると、伊那谷の洪水の特徴について、

『天竜川とともに−その地形・地質と激流に挑んだ人々−』

【伊那谷は構造谷で、隆起する南アルプスや中央アルプスの山塊と、中央構造線を始めとする多くの構造線やこれに派生する断層が幾筋も通っている。このため地形は、急峻で地質は脆弱となっている。こような地質、地形条件によって、伊那谷の洪水の特徴は、洪水時に多量の土砂の流出を伴う事である。】

と論じる。
 このようにみてくると、天竜川は、地形や地質の構造上、常に土砂が多量に排出される河川であり、土砂の排水路となっている。このことから天竜川のダムは各々堆砂率が短期間で非常に高くなることが容易に理解できる。

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