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10.市の瀬ダム(飯田松川)、大泉砂防ダム(大泉川)の建設

 ここで砂防ダムの歴史について少し触れてみる。わが国の近代的な砂防堰堤は明治8年淀川水運のための砂防対策として、京都府相楽郡山城町の不動川上流における石積堰堤12基が造られたのが最初であるといわれている。(成岡昌夫著『新体系土木学会別巻土木資料百科』 (技報堂・平成2年) )

 天竜川の治水は砂防から始まった。小渋川の砂防工事は昭和8年〜11年まで長野県が実施、昭和12年から5ケ年継続事業として内務省名古屋土木出張所で着手したが、戦争のため休止した。再開は昭和23年5月であった。一方三峰川は昭和25年まで長野県が実施、26年直轄となった。昭和35年治水長期計画において、砂防工事が特に重要視され、太田切川、中田切川、与田切川、片桐松川を含めて計画が作成された。しかし、昭和36年6月の大水害によって計画を変更せざる得なかった。(前掲書『小渋ダム工事誌』


『市の瀬ダム工事報告』

 天竜川における直轄砂防ダムは 170基、長野県補助砂防ダムは2418基(『河川便覧 '04』)を数え、恐らく天竜川の砂防ダムは1000基を下ることはないと推測される。天竜川において2冊の砂防ダム工事誌がみられた。
 飯田松川における松川ダムの上流に、市の瀬ダムが昭和47年に完成した。吉川建設株式会社編・発行『市の瀬ダム工事報告』(昭和49年)では、ダム築造の必要性について、三六災害によって飯田松川流域の至る所に山腹崩壊を引き起し、多量の土砂を河川に押し流し、なおこの土砂流による災害の脅威を人々に与えるとして、それを取り除くために造られたとある。市の瀬ダムの諸元は堤高33m、堤頂長88.5m、貯砂容量62万m3、型式重力式コンクリートダムである。

 大泉川における大泉砂防ダムは長野県上伊那郡南箕輪町大泉所山に昭和48年に完成した。大泉川はその源を中央アルプス北端経ケ岳2296.8mに発し、急峻な河川である。水源池での土砂生産地帯と中下流では土砂堆積地帯が直結される治水砂防上極めて不均衡を呈している。このため幾度となく下流域に水害を及ぼしている。 昭和43年の調査では飯田松川と同様に大泉川上流の山腹、渓間地に 100万m3を越える不安定土砂が確認され、このため堤高31m、貯砂容量57万m3の大泉砂防ダムが昭和48年に造られた。

 長野県編・発行『大泉砂防ダム工事誌』(昭和48年)のなかで、長野県砂防課長松林正義は【このダムは本県でも屈指の規模を誇る大型砂防ダムであり、特に伊那断層攪乱帯中に築造するという地質的に不利な条件を基礎処理工法、段丘礫層処理工法などその設計、施工面に高度な技術を駆使し、また上流の既設砂防の堆積土砂をコンクリート骨材として使用し、工事節減をはかり、且つ満砂した砂防ダムの機能回復をはかる新しい方法を試みた】と、「ダム施工の特徴」に述べている。ここでも市の瀬ダム、大泉砂防ダムともに土砂堆積との闘いが続いている。


『大泉砂防ダム工事誌』

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