「国土総合開発法」と「電源開発促進法」
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戦後の多目的ダム建設ブームの論拠となった法律について、施行時期や条文などを概観し半世紀を越えるダム建設の足跡を法制度整備にしぼって確認する。政府の立法措置は時代の難局や国民的要請を色濃く反映している。ダムの建設や管理に直接・間接につながる法律を列挙する。昭和25年(1950)の「国土総合開発法」を手始めに、27年の「電源開発促進法」、32年の「特定多目的ダム法」、36年の「水資源開発公団法」、同年の「災害対策基本法」、39年の「新河川法」、48年の「水源地域対策特別措置法」、49年に「発電用施設周辺地域整備法」がある。平成9年(1997)河川法の抜本的改正により河川環境重視がうたわれた。いずれも時代の要請を先取りしたものであった。(以下、『建設省五十年史』、拙書『大地の鼓動を聞く―建設省50年の軌跡―』、同『砂漠に川ながる』参考)。
敗戦後の日本列島は大水害に見舞われ続け「国土保全」が声高に叫ばれた。昭和22年(1947)政府は利根川大決壊の大惨事を深刻に受け止め、解体直前の内務省に治水調査会を設置した。10大河川(利根川、淀川、北上川、木曽川、江合川・鳴瀬川、最上川、信濃川、常願寺川、筑後川、吉野川)の抜本的な治水対策を検討した。(同年経済安定本部にも河川総合開発協議会が設けられたが、調査会と見解が異なることが多かった)。2年後の24年、10大河川の改修計画が策定された。戦後初めて大河川における改修計画が確定した。同時に政府は、困窮する国家を救済する措置として大河川流域の総合開発を目指した。25年「国土総合開発法」が制定された。(同法については「1月号」でも論じたので簡単な記述とする)。同法は国土の再建を目標に掲げた初の国土計画の基本法で「国土の自然的条件を考慮して、経済、社会、文化などに関する施設の総合的見地から国土を総合的に利用し、開発し、及び保全し並びに産業立地の適正化を図り、併せて社会福祉の向上に資する」(同法)ことを強調している。ここにアメリカ・TVAの精神が色濃く反映してことは言うまでもない。
計画実施にあたっては、特定地域総合開発計画のみ国の負担金とし補助金に関する特例を設け得ること規定したのは時代の要請である。この年朝鮮戦争が勃発した。GHQ占領下の日本は朝鮮半島に出撃する国連軍(主に米軍)の後方支援基地となった。日本経済は「特需景気」で苦境を脱出した。26年河水統制事業は河川総合開発事業と呼ばれるようになった。「国土総合開発法」の精神を受けての改称である。同法は27年に改正された。
@特定地域総合開発計画を閣議決定すること。 A全国総合開発計画を国土総合開発計画の基本とすること。
全計画を一貫した方針で実施する2項目が追加された。昭和27年(1952)電源開発促進法が制定されて、電源開発株式会社が設立された。産業復興を担う電力需要の増大に対応するためである。翌28年ダム建設候補地として佐久間ダム(天竜川、重力式ダム)、田子倉ダム(只見川、重力式ダム)、奥只見ダム(同前)、御母衣ダム(庄川、ロックフィルダム)など15地点が採択された。戦後ダム建設史を飾る大規模発電用ダムばかりである。(「土木界に革命を起こした」佐久間ダムについては別の連載で論じる)。巨大ダム建設時代の幕開けであり電力の「水主火従」時代であった。
一方、ダム建設に伴う水没地への補償問題が深刻な社会問題となった。問題を早期に克服するため、同年「電源開発に伴う水没とその他による損失補償要綱」が閣議了解された。これは「公正な補償の実施に資するため」電源開発などに伴う損失の補償の基準を定めたもので、謝金(8条)、薪炭生産者補償(31条)それに少数残存者補償(51条)などを設けている。生活権補償に積極的な姿勢を示したのは当然である。29年には建設省が「建設省の直轄公共事業の施行に伴う損失補償基準」を定めた。その後37年には「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」が閣議決定された。水没者の苦境に配慮しないダム建設は大きなツケを後世にまで残すだけである。
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