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5.轟ダム(大淀川)の建設、撤去

 大淀川上流都城盆地の観音瀬地点における轟ダムの建設、撤去に関し、霧島盆地水害対策委員会記録編さん委員会編『轟ダム史』(霧島盆地水害対策委員会・昭和38年)により、その経過を追ってみたい。

 轟ダム(大淀第一発電所旧堰堤)は、大正7年電気化学工場(株)が水利私用許可を得て建設し、その電力を福岡県大牟田市へ送電を行う計画であった。

 宮崎県議会は、県外送電に反対決議を行い、しかも地元では観音瀬地点でのダム建設は年々洪水に見舞われている地域であって、さらに大洪水を蒙ることとなるとして反対運動がおこった。


『轟ダム史』
 しかし、大正11年4月電気化学工業(株)は、公納金を納めること、水害が生じたときは協議し、処理することで、地元との土地取得に応じる契約が交わされた。大正13年轟ダム(堤高7m、堤頂長87.8m、ストニー式ゲート巾6.06m、有効高さ4.55m、11連)が完成した。

 その後、昭和16年1月国家総動員法に基づく、統制令で日本発送電(株)が設立され、電気化学工業(株)は日発にダム施設を移譲し、さらに戦後昭和25年11月電気事業再編成法が交付され、昭和26年5月九州電力(株)に移った。

 轟ダム建設後の水害は、昭和14年ごろから戦後にかけておこり、被害農民は忍び難きを忍んでいたが、ダム撤去運動に進展しなかった。昭和29年9月台風12号は、宮崎県下に死者51人、行方不明者13人、家屋全壊 350戸、流失家屋 264戸、堤防決壊 311ケ所、橋梁流失 148ケ所、田畑流失・冠水1万3700haなどに及んだ。

 この台風による洪水( 都城降雨量 600mm)は、轟ダム下流に排水されず高城町、高崎町、都城市にも大水害をもたらし、都城盆地に一大湖を出現させた。このため耕地3500haが浸水し、収穫ゼロの水稲は 320haに及び農産物は壊滅的な被害を蒙った。この水害を機に一挙に轟ダム撤去論が盛り上がり、昭和29年10月ダム撤去が決議された。一方31年4月太郎坊町池島地区など36戸が集団移転している。33年10月関係機関の協議によって、新設ダム計画が確定し、36年3月地元待望していた轟ダムが九州電力(株)によって撤去された。

 そして、36年5月轟ダム下流 3.7km地点に、現在の大淀川第一ダムが完成。このダムの諸元は堤高47m、堤頂長178.55m、総貯水容量 850万m3、最大出力55,000KWである。37年11月には轟ダム跡に記念碑が建立された。
 このように、ダム建設によって水害が頻繁に起こり、そのために撤去されたダムは全国的に珍しい。


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