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6.上椎葉ダム(耳川)の建設

 耳川は、その源を九州山地に発し、急峻な渓谷を下り、東流しながら十根川、七ツ山川、柳原川などを合わせ日向灘に注ぐ水路延長 103.4km、流域面積 881km2の二級河川である。 耳川水系の電源開発を追ってみると、大正9年住友合資会社が水利権の許可を受けたが、県外相伝反対運動に遭遇し、公納金を納めて解決が図られた。

 大正14年九州送電(株)が設立し、ダムによる舟筏路の代替として、道路を造ることとし、百万円を寄付して、納島〜椎葉間80kmに百万円道路と呼ばれる道路が完成した。この道路によって水力開発が進んだ。昭和4年西郷ダム、7年山須原ダム、13年わが国コンクリートダム設計・施工の近代化の原点となった堤高87mの塚原ダム、17年岩屋戸ダム、20年下椎葉ダム(上椎葉ダムによって廃止)、27年大内原ダム、そして堤高 110mに及ぶわが国初の大型アーチダム上椎葉ダムが完成し、作家吉川英治によって日向椎葉湖と名付けられた。

 この上椎葉ダムにより流况が著しく改善されたため、一貫運業のため既設の岩屋戸ダムが昭和35年、山須原ダムは56年、西郷ダムは58年に各々増設が完了した。

 上椎葉ダムに関して、九州電力(株)土木部編『上椎葉アーチダムの計画と施工』(丸善・昭和32年)、鹿島建設(株)上椎葉出張所編・発行『上椎葉アーチダム工事誌』(昭和31年, 写真 268)がある。
 上椎葉ダムの役割は、最大90,000KW、常時出力15,800KWの発電を行い、九州各地に供給するもので、ダムの諸元は、堤高 110m、堤頂長 341m、堤体積39万m3、総貯水容量 9,155万m3で施工者は鹿島建設(株)、事業費は54.1億円を要した。
 なお、主なる補償は家屋移転73戸、水没面積386.9ha、尾八重小学校、椎葉小学校、椎葉中学校の移転などであった。この工事に延べ 500万人が携わったが、残念ながら 105名の尊い命が喪われた。

『上椎葉アーチダムの計画と施工』

『上椎葉アーチダム工事誌』

 前掲書『上椎葉アーチダムの計画と施工』の序でアーチ式ダムの採用とその苦難について九州電力(株)社長佐藤篤二郎は次のように述べている。

 これを採用するにあたっては、米国O.C.I(米国海外技術顧問団)にも調査を依頼し、また日本の斯界の権威の意見を求めるかたわら、当社田代技師をして欧米各国のダムを視察、研究せしめるなどしてあらゆる方面から真剣に討議した後、本計画の経済開発とダム技術の向上をめざして本型式を選定することとした。
 工事遂行にあたっては各国の最新技術を調査せしめ遺憾なきを期し、一方前記のO.C.Iにより米国技術の導入を計った。
 この間わが建設陣は一致協力、文字通り寝食を忘れて全精力を傾倒し、幾多の予期せざる新事実に直面、なかんづく完成直前における大洪水に遭遇したにもかかわらず、これら障碍をよく克服して昭和30年5月ついに本工事が完成した。

 昭和27年九州電力(株)は、上椎葉ダム計画全般についてO・C・Iと正式契約を行った。最初堤高 131mのアーチダムの計画であったが、地質上、アーチダムの基礎として多少疑問が残り、また高いアーチダム施工の経験がないことから 110m程度に決まり、重力式ダムでは5年かかるところを、アーチ式ダムは2年で施工できる利点もあったという。

 余水吐については、種々研究結果、スキージャンプ式に決定し、27年9月本工事を7区に分け着工した。前述した轟ダムに水害を及ぼした台風12号に遭遇したが、「アーチダム本体は約10時間の間に設計水頭 110mの70%に相当する高静水圧を受けたものの、これによるダム自体のヒビワレ、漏水は全く見られず、自然の脅威に充分堪えた」と上椎葉ダムの安全性が実証されたが、完成の水車、発電機は水没したため損害を蒙った。

 この書の第8章「ダムにかんするO・C・Iおよびその見解」、第9章特殊研究として、「余水吐水理模型実験、余水吐放流試験および実測、ダム振動に関する研究および模型実験、ダムに関する測定解析結果」が論じられ、「アーチダム設計基準」も掲載されており、その後のわが国におけるハイダムアーチダム施工に貢献することとなった。


『孤線のダム−上椎葉ダム記録』

 一方、今泉敏迪著『孤線のダム−上椎葉ダム記録』(学風社・昭和38年)がある。著者は延岡労働基準書の監督官として上椎葉ダム建設工事の現地単独駐在官となって工事完成までダム現場に起居した。この経験から上椎葉ダム建設記録を詳細に記したものでユニークな書となっている。
 柳本見一著『激動二十年ー宮崎県の戦後史』(毎日新聞西部本社・昭和40年)から、日向耳川河口から80キロの山また山、平家の落人の里・椎葉のダム現場の状況を追ってみる。
 ひっそり住んでいた山里にパチンコ店、映画館、飲食店、銀行、質屋まで、椎葉銀座が誕生した。労働者だけで8000人に。夜の遠景は箱根か香港、一歩踏み込めば道頓堀か。と歌われた。気の荒い労働者集団のケンカが絶えず、28年2月下請けの宮本班と稲葉班の40数人が争い、上椎葉警部派出所員が駆けつけ28人を捕らえた。また、宮崎刑務所の囚人80人も働いていたが3人が脱走、青い服3人はまもなく発見された。給料日は上椎葉郵便局は送金する者、貯金する者と様々で、戦場のようであった。

 今では、この銀座のような賑わいはすっかり消え失せ、静かな山里に戻っている。

 上椎葉ダム完成50年後、前述の台風14号(平成17年9月4日〜6日)は宮崎県を襲った。 139ケ所にわたる土砂災害をおこし、このうち椎葉村、三股町、山之口町では11名が亡くなり、13市町村に災害救助法が適用された。

 この台風により、耳川水系の水力発電ダム群は災害を受け、運転停止に及んだ。
 西日本新聞(平成18年7月30日)とによると「昨年、台風被害などを受けて運転停止にしていた上椎葉2基(9万KW)、塚原4基(6万3100KW)、山須原3基(4万3000KW)、西郷2基(2万KW)、合わせて4ケ所11基であるが、8基の復旧、上椎葉1号機は来年2月まで、塚原3、4号機は今年12月までに運転再開の予定」と報じている。台風の恐ろしさとその災害に対する河川管理、ダム管理の困難さを感じる。


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