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◇ 3. 荒川の水害

 荒川の水害は江戸期から毎年のように起こっていた。特に明治40年8月、明治43年8月、昭和22年9月の洪水の被害は甚大であった。建設省荒川上流工事事務所編・発行「荒川上流六十年史」(昭和54年)から、その水害を追ってみた。

@ 明治40年の水害
 8月15日〜24日にかけての暴風雨によって、荒川本堤は全線にわたって一斉に越水し、そのために左岸北足立郡川田谷村地先4ケ所、平方村2ケ所、馬宮村、大久保村、横曽根村、川口町各1ケ所、右岸比企郡吉見村2ケ所、小見野村、出丸村各1ケ所、延長436間が決壊し、その他の支川筋において小破堤数十ケ所に及んだ。結局堤防決壊131ケ所、欠損515ケ所、橋梁流失88ケ所、河岸崩壊254ケ所となり、利根川の出水による氾濫と併せて、被害町村数195、死者7名、行方不明者17名、家屋流失201軒、家屋浸水18 174軒に及んだ。

A 明治43年の水害
 8月1日に降り始めた雨は、10日には暴風雨となり、荒川筋は未曽雨の大洪水となった。荒川流域内の堤防決壊178ケ所、欠損136ケ所、道路破損43ケ所、橋梁流失56ケ所、河岸崩壊6ケ所の損害を受けた。利根川筋の被害を併せ、死者324名、家屋流失全壊1 679戸、破損16 468戸、浸水84 538戸、被害農地5 000町に及んだ。
 明治末期における2度にわたる大洪水をきっかけに荒川下流では抜本的な改修工事荒川放水路に取り組むこととなり、大正2年から補償が解決したところから工事が始まり、大正5年荒川の水を隅田川と放水路に分ける岩淵水門の工事が着手された。延長22キロの放水路の通水は大正13年、完工は昭和5年であった。

B 昭和22年の水害
 9月15日カスリン台風の豪雨で、荒川流域は四間宮村付近、大間原堤防、熊谷久下地先2堤防など15ケ所が決壊、堤防崩壊55ケ所、橋梁被害64ケ所などに及んだ。埼玉県内の228市町村に被害が生じ、県内死者16名、流失家屋77戸、全壊家屋195戸、床上浸水家屋14 700戸にのぼった。続けて23年8月アイオン台風、24年にはキティ台風が襲った。

 これらの台風による水害は、荒川全ての基準点での計画を越えた高水位であった。このことから急遽、戦後経済復興を図るためには利水事業のみでなく、治水の必要性がつけ加えられ、埼玉県は「荒川総合計画」をまとめた。その根幹をなす計画は、荒川の上流に二瀬ダムを造り、治水を図り、農業用水を供給し、水力発電を行うことであった。


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