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◇ 11. 相当ダム(牟田川)の建設

 第3海軍区が施工したダムは岡本ダムをはじめ山の田ダム、転石ダム、相当ダムがある。長崎市の水道ダム本河内高部ダム、本河内低部ダムの設計施工に当たったのは吉村長策博士で、博士は佐世保市においても、明治32年軍港水道の計画と設計施工を担当している。山の田ダム、浄水施設、配水管の設計並びに佐世保市上水道の基本計画を立てた。これによって佐世保市の水道が初めて各戸に給水が可能となり、近代都市水道のスタートとなった。長崎市のスタートより10年後のことで、吉村長策博士は佐世保市水道の始祖として崇められている。


 永元為市著・発行「佐世保と水」(昭和56年)は佐世保市における水道とダムに関して詳細に記された書である。著者は昭和7年佐世保市水道局に勤務以来、昭和46年に退職するまでの間、佐世保市の発展に尽くした。この書から相当ダムの建設を追ってみたい。

 相当ダムは昭和16年2月、米英に宣戦布告する前の臨戦体制の中で起工された。ダムの設計施工の主任者は海軍技師中村清人であった。当時このダムが軍港水道の最後のダムになろうとは、関係者は誰一人として夢想だにしなかったという。

 相当ダムは元柚木村相当を流れる相浦川の支流牟田川の上流、下岳免と相当免地先に建設された。相当ダムの諸元は堤高34m、堤頂長150m、貯水容量40万m3、型式重力式コンクリートダムである。ダムは昭和19年7月戦争遂行のための突貫工事によって堰堤堤頂手摺の仕上げを残し、湛水を開始し、竣工の形がとられた。


「佐世保と水」
 相当ダムの竣工までのエピソードをいくつか挙げてみたい。
@ 昭和18年、すでに厳しい統制経済下にあって鋳鋼材をはじめ全ての物資は民需のみならず軍需も乏しかった。
A 相当ダムの施工用のシューチングタワー等の機械は佐世保市所有の菰田ダムに使用したものがそっくり用いられた。
B 戦前のダム工事は、コンクリート用材の配合仕方が異なる点や機器類の不備で沢山の労務者を要した。
C 軍は内地における労働力の不足を補うため南方戦線より徴し、相当ダム工事現場には200名ほどが充てられていたという。
 南方からの外人は野球選手のような背番号同様の番号をつけられ、慣れない風土と闘いながらダム工事に従事した。柚方の寒冷に耐えられなかつた50余名が羅病ののちに最期を遂げた。
D 昭和20年8月太平洋戦争は日本の敗戦によって終止符がうたれ、工事中の俘虜病没者50余名は戦中仮埋葬された場から米軍の手によって発掘され、遺体は空路無言の帰国となった。
E 佐世保市は相当ダム水没地構内に昭和31年4月勇士50余名の霊を弔い、他のダム工事での日本人の殉職者を合祀し、佐世保市の水道殉職者慰霊塔を建立、それぞれの氏名を記し、祀っている。


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