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平和池跡地を訪ねて

ダムマイスター 01-003 夜雀

2016年3月下旬、ダムマイスター仲間のdashelo様がtwitterで京都府亀岡市にあった平和池というダムの決壊事例について発信されました。

1953年(昭和28年)の南山城水害、台風13号(T5313)による大水害の2年前に亀岡市で大変な災害が起きていたのです。

南山城水害については滋賀県の多羅尾地区の取材、井出町の取材などで調べていましたが、この亀岡の平和池については全く知りませんでした。

平和池跡地のある篠町自治会のHPにこの災害についての情報があります。

また、この平和池の決壊を引き起こした降雨による洪水で被災された方がまとめられた本が現地で購入できるというお話だったのでぜひとも読んで勉強しておきたいと思い、dashelo様から情報をいただき、現地に向かいました。


京都縦貫道の篠I.Cを降りて4km程で平和池跡地には到着します。

宅地は高い所に造られていますので住宅街の一番奥まで行ってそのまま下っていくとガードレールの切れ間にモニュメントが設置されています。
これが平和池跡地の目印です。

このモニュメントには当時の水害で流失した家屋をはじめ平和池の堤体の図、洪水時の時間経過など、詳細な情報がたくさん記載されていました。
右端の“1951.7.11”は災害が発生した日付です。

2011年に建てられたモニュメントです。

平和池水害の概要です。

こちらが平和池の平面図と諸元になります。

平和池は昭和22年起工、昭和24年竣工、そして昭和26年に決壊したという経過をたどったということがわかります。

洪水が起きた日の時間経過です。
まず朝方に大変な豪雨があったようです。
そしてまず、年谷川右岸の堤防が決壊し落橋も起きています。
平和池が決壊したのはこの直後です。
下流で破堤していたところに“ダムの鉄砲水”が到達し柏原地区で大変な被害が発生したのです。

9時の段階で下流の集落で浸水被害が出ていました。
そこに堤防の決壊と落橋が重なり、上流の平和池が決壊約20分でダム湖にたまっていた水が集落に到達したようです。

モニュメントの後ろに続く元貯水池沿いに設けられていたであろう道に入りました。
平和池の堤体があったであろう地点まで勾配は無く同じ高さで続いています。

しばらく進んでいくとコンクリートの建屋が現れました。

中にはこれだけのものしか残っていません。

錆びた鉄の、何かハンドルが付いていたのであろう基部、そして平和池に設けられていた放流量を調節するゲートのワイヤーが届いていたのであろうスリット。

窓から外をのぞくと真下は余水吐きの越流部。
バスタブ式の越流部です。
その上をワイヤーを走らせていた痕跡を残す滑車が残っているコンクリートの架台が3本横断しています。

堤体があったのであろう場所には何も痕跡がありません。
貯水池は草むして深い谷になっています。
谷底に流れる水音が耳に届くだけの静かな場所でした。




現場見学の後、平和池決壊で被害を受けた柏原地区の公民館にやってきました。
建物はピロティ構造で通常の二階部分の高さに一階がありました。
水害を受けた場所だからこのデザインになったのかと階段を上っていくとホールに展示がありました。

たくさんの資料写真が並んでいます。
ただ、この公民館は人が常駐していませんので、これらの展示を見たい時は予め、連絡してお願いしておく必要があります。

【柏原公民館】 〒621−0821 京都府亀岡市篠町柏原町頭42
        TEL.FAX=0771−22−0297
こちらで「平和池災害を語り継ぐ 柏原75人の鎮魂歌」の執筆者の方から直接、災害概要などをお伺いしました。

執筆者の方は小学生の時に実際にこの水害に遭われた方です。


現在の柏原地区の航空写真です。
左下に慰霊塔の位置が示されています。
ここが柏原地区に大災害をもたらした決壊場所です。

これは現在の航空写真になります。
平和池の水が柏原地区にどのように到達したかが矢印で示されています。
災害当時は川の流れはこのようにはなっていませんでした。
もっと曲がっている部分がありましたが一部は直線化され捷水路で付け替えられたようです。


終戦直後の地図です。
現在と年谷川の流れが違います。
この地図を見て最初に気になったのは柏原地区直上流で堤防が切れたということですが、そこに至るまでに大きな蛇行部がありますので他にも堤防が切れていたのではないかということです。

「柏原75人の鎮魂歌」の中にこの年谷川は明治18年7月、明治24年の8月、明治40年の8月、明治43年の9月と、出水期に何度も堤防の決壊を経験している川であると書かれています。
暴れ川だったのです。


平和池には余水吐として立派なバスタブ式の越流部と斜樋、底樋管が設けられていました。
低水位になっても取水できる設備もありました。
しかし昭和26年7月11日にこの地を襲った豪雨は
この設備で安全に吐き切ることができる量の雨ではなかったのです。

   『香川の農業 農村 整備』のため池についてのページでは
   アースダムでよくみられる取水設備と底樋のわかりやすい図と
   バスタブ型の越流堤として香川県の満濃池の写真が載っていますので
   参考にご覧になってください。

洪水時に被害を拡大するのが土砂崩れと流木です。
この豪雨時にどれだけの流塵、流木がこの余水吐に押し寄せたのかはわかりませんが、何らかの理由で閉塞した、または吐き切れない水が押し寄せたことは想像に難くありません。

そして堤体を越流した水は堤体を削り決壊に至ったと考えられます。

亀岡市は市街地の中心を桂川が流れ下流に保津峡という狭窄部を抱えています。
保津峡がある限り、浸水リスクを完全に取り除くことはできません。
過去の浸水被害を受けた範囲を地図に書き表してくれているものがこの図です。

現在も効果を示しているのが川の横に設けられている霞堤と遊水地です。
上の写真は分かりづらいですが中央に霞堤の流入部、右側に桂川、左側が遊水地として機能する耕作地です。
乱開発はせず氾濫原に住むマナーをしっかりと守っている土地柄なのです。

しかし、それだけ住民の方の水害に対する意識が高く遊水地があっても容赦なく災害はやってきます。

最近では淀川水系の基本計画T5313を超過する降雨をもたらしたT1318災があります。
上流で日吉ダムがダムとしての機能を最大まで発揮して特別防災操作を実施してくれました。



少し話がそれますがこの取材をした数日前に平成28年熊本地震が起きました。


大変な被害がでいる中、ニュースで大切畑ダムが決壊の恐れという報が飛び出します。

翌日までには堤体に変状はなく、貯水しているダムでゲート部に微小なずれが生じたために水漏れが生じ洪水吐から水が出ているということが判明しており決壊の恐れはなかったのですがニュースでこれを目にした時は本当に怖かったのを覚えています。

こちらは2013年に開催された第45回ダム技術講演討論会で2012年に京都で開催された国際大ダム会議の報告として紹介されていたスライドの一部です。
ドイツでアースダムが大雨で越流して決壊するまでの時間経過が示されています。
この事例では記録的な豪雨で越流が始まって数時間で決壊したようです。


同じ会で報告された東日本大震災の地震で堤体が壊れた藤沼ダムの事例です。

こちらは阪神大震災で堤体が破損して漏水が発生したけれど、管理しておられる水道局の方が完ぺきな対応をしてくださったおかげでダム災害を食い止めた西宮市のニテコ池です。
地震による破壊と越流による破壊はケースバイケースとはいえ、全く違うものであると考えなくてはなりません。

構造物が直接的なエネルギーで破壊される加速度の大きな地震と越流によってじわじわと壊れていく洗掘、パイピングによる破堤は一緒にできません。




公民館でたくさん勉強をさせて頂いた後、やってきたのは平和池水害の際に最初に堤防が切れたという場所に建てられた慰霊碑です。

石碑に彫り込まれた文字
“治山治水以テ産業ノ振興ヲ…”
築堤された時にダムに対して寄せられた期待の言葉はダムの決壊という形でとても悲しいものとなってしまいました。

わずか二年で


戦後の日本で各地で起きた水害、その原因は台風であったり前線性降雨であったり集中豪雨であったりしました。

平和池水害は実際に被災した方の証言を集め多くの人が共有できるよう資料を編纂されました。

亡くなった方のために、そして今生きている人のために、大切な記録として編纂されました。

亀岡に来たら現在もがんばっている霞堤と遊水地、そして年谷川にあるこの慰霊碑を見て、流域の人が水害を幾度も経験してきた歴史を知ってほしいと思います。

(2016年5月作成)
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 (夜雀)
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