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大正2年にあった阿賀野川の大洪水「木津切れ」のこと

これは、本田典光様の投稿です。

1.はじめに

 阿賀野川は福島県と新潟県を流れる河川で、大正2年に未曾有の大出水があった。その大出水によって越後平野を流れている阿賀野川の沿川では破堤が頻発し大災害となった。阿賀野川の支川である小阿賀野川(阿賀野川から分派して信濃川に流入する河川)にも大量の洪水流が流入して小阿賀野川右岸木津地先で破堤した。その破堤によって亀田郷(信濃川と阿賀野川、そして小阿賀野川に囲まれた面積11,154haの地域)のほぼ全域が水没し、大災害になった。この阿賀野川の大出水による災害は「大正2年の木津切れ」(木津は江戸時代から11回破堤している)と呼ばれている。


地図「明治44年近代国家の始まり」を加工
2.阿賀野川と小阿賀野川

 阿賀野川は、栃木、福島県境の荒海山(1,580m)に源を発し、会津盆地で日橋川(にっぱしがわ)をその下流で流域最大の支川である只見川を合流して、新潟県と福島県の県境の山間狭窄部を流れ、新潟県五泉市馬下(まおろし)地先で越後平野に出て新潟市で日本海に注いでいる、河川延長210q、流域面積7,710km2の河川である。
 小阿賀野川は、新潟市秋葉区満願寺(まんがんじ)地先で阿賀野川から分派して、新潟市江南区酒屋地先で信濃川に合流している延長10.8q、流域面積141.4km2の河川である。

3.大正2年の木津切れ

〇概況と新津方面の状況
 大正2年8月28日の未明、猛烈な台風が東京湾沖に達した。暴風雨圏が極めて大きい台風だったため、新潟・長野・福島などの各県ではまれにみる大雨になった。
 信濃川・阿賀野川をはじめとして新潟県内の各河川は急速に増水し、各地で堤防決壊などの被害が生じた。
 阿賀野川下流部の集落では上流地方からの増水の通報を受け、住民総出で河川の監視を開始した。26日から降り続いた大雨で阿賀野川を含む多くの河川はかってない出水となり、有効な防御手段を取ることが出来なかった。27日夕方から新潟県内の阿賀野川は大増水となり、東蒲原郡の津川や安田では破堤や橋梁流出が発生した。
 28日未明に小阿賀野川の支川の能代川で越水氾濫が発生し、新津町(現;新潟市秋葉区新津)内の柄目木(からめき)・滝谷・飯柳・草水(くそうず)・金沢・新町で浸水被害が発生した他、下興野(しもごや)・北上では堤防が決壊し、3橋が流出した。
 阿賀野川は、28日午前10時頃に市新(いちしん)・阿賀浦方面で堤防が次々と切れ堤内地に洪水流が流入し新津町付近に濁流が到達した。また新関(しんせき)村では、阿賀野川と支川の早出川が同時に出水し大きな被害を受けた。
 阿賀野川は100年来の大洪水で、羽下(はが)から六郷までの間の堤防1000間(1,800m)余が越水した。羽下から新郷屋(しんごうや)間で21か所(290間)の堤防が決壊し、新関村ではほとんどの人家で五尺(約150cm)余り浸水した他、阿賀浦方面では、中新田(なかしんでん)・大安寺の堤防4カ所(75間)も決壊した。
 満日村の大蔵(だいぞう)地内では、能代川が100間(約180m)余にわたり破堤したことに併せて阿賀野川からの流入水が集中し、阿賀と能代の両面から濁流が押し寄せたことで一帯は大湖と化し、床上浸水200戸以上という被害が発生した。


地図「明治44年近代国家の始まり」を加工
〇小阿賀野川右岸(亀田郷側)の状況
 小阿賀野川も阿賀野川からの洪水流の流入を受けて水位は上昇し、小阿賀野川沿岸の村々の堤防は刻々と危険が迫り、沿岸の村々はもちろんのこと亀田郷内の人々も応援に駆けつけ必死の水防活動を行った。横越村は、危険が迫っている集落に手伝い人夫を派遣していた。危険が迫っている大字木津にも人夫派遣を申し入れたが、木津は「警鐘を鳴らせば数百人の人夫が集まるので必要ない」と横越村の申し入れを拒絶した。
 能代川の破堤による濁流と阿賀野川の濁流は、合流して28日に満日村大字大蔵の小阿賀野川の堤防を堤内地側から乗り越え小阿賀野川に流入した。その流入によって小阿賀野川の水位は急激に上昇し、小阿賀野川中下流部の地域では越水の危険がたかまったため各村では住民総出で防御に努めた。右岸の割野(わりの)が最も危険な状態になった。割野では土俵等の水防資材が不足したため集落内の材木店にあった材木も利用して水防作業を行っていた。割野で越水すると思われた寸前に木津で破堤が発生し、割野の水位は一挙に2〜3尺(60〜90cm)減水したため越水をまぬがれた。
 大蔵の堤防を堤内地側から破って小阿賀野川に流入した濁流は、28日11時30分頃に対岸木津字水戸口の小阿賀野川右岸の堤防を突破した。木津の破堤は134間(約244m)に達し、そのため亀田郷のほぼ全域が浸水被害を受けた。

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4.亀田郷が作った洪水防御線

 亀田郷は、明治29年7月22日にも大洪水(横田切れ)に見舞われている。その洪水のときは、木津で50間(90m)破堤し亀田郷一帯が冠水した。しかし沼垂(ぬったり)、本所間の県道新発田線を防御線として洪水流を防御したことで、防御線の北側(海側の地域)は水災をのがれた。そのことから亀田郷では郷内各地に連続した堤を構築して防御線とした。

栗ノ木川以西に作った防御線
    第一防御線 鵜の子から二本木までの大堀の江丸を利用
    第二防御線 鍋潟より丸潟を経由して舞潟に至る江丸を利用
栗ノ木川以東に作った防御線
    第一防御線 石山、粟山、中野山から岡山、本所に至る里道と第二砂丘列を利用
    第二防御線 沼垂より本所に至る県道新発田線を利用

※江丸;亀田郷内には大小無数の用排水路があり、水路からの溢流を防ぐため築いた小堤防
(「近世越後平野の開発について」 飛田雅孝より)

5.大正2年の洪水における効果

〇栗ノ木川以西の効果
 第一防御線は、鵜の子から二本木までの大堀の江丸を防御線として、早通村以西を救う計画だったが、洪水流は簡単に第一防御線を越えて侵入した。
 第一防御線が突破されると長潟、姥ヶ山、山二ツの3部落協力して早通村境界の小堤で防御したが、功を奏せず集落内に洪水流が流れこんだ。
 第二防御線は、第一防御線から西に位置して鍋潟より丸潟を経て舞潟に至る江丸を防御線としたが、この防御線も洪水流に突破されてしまった。
 曾野木村に侵入した洪水流は鳥屋野村方面に向かったため、鳥屋野村では親松囲(おやまつがこい)で村民総出の水防活動を実施し洪水流を防御した。その親松囲で洪水流を1日食い止めたがついに破れ、鳥屋野村から沼垂に至る一円が水没し、栗ノ木川以西は泥の海となった。

〇栗ノ木川以東の効果
 木津より流入した洪水流は刻々と増加して北へ向かって流れた。石山、粟山、中野山から岡山、本所に至る里道と砂丘を利用して作られた第一防御線は、比較的強固で砂丘を利用しているため洪水流の突破可能部分が数カ所と守りやすく危険に遭遇しながらも持ちこたえた。その強固な防御線も兒池(こいけ 別名;赤池)地点に濁水が集中して、ついに突破された。
 沼垂より本所に至る県道新発田線を第二防御線とした。この第二防御線は、県道の下流側住民による必死の防御作業で死守することができた。
 今回の「木津切れ」において、栗ノ木川以西の洪水防御は親松囲で約1日支えたが、他の防御線は簡単に洪水流に破られてしまった。また栗ノ木川以東の洪水防御については、第一防御線は効果があったものの最終的に破られた。第二防御線は洪水流を防ぎ切り、大きな効果を発揮した。

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6.洪水時のあらそいや噂

〇防御線の上下流での争い
 栗ノ木川以東の第一防御線は比較的強固だったため、防御線の上流に位置する大江山村側の水位は上昇し続けた。そのため大江山の村民は集団で猿ケ馬場と岡山の間の低地である兒池(赤池)で防御線を破壊して溜まっている濁水を流下させようとした。その計画を察知した第一防御線上流側の住民は、警鐘を打ち法螺貝を吹いて住民を集めて対抗した。
 兒池(赤池)は砂丘が低くなっている場所で、砂丘を貫通する水路がある地点。昔から大江山側の湛水が上昇すれば大江山側の住民は、その締切りを破壊しようとし砂丘の下流側の住民はこれを防御しようとして争った地点である。
 大江山と防御線下流の住民の抗争の長い歴史がある兒池(赤池)であるので、警察は今回も兒池(赤池)で抗争があると予期して準備をしていた。亀田、沼垂分署の他、新津、新潟の本署からも応援の巡査を現地へ派遣して争いをかろうじて終息させた。
 また沼垂より本所に至る県道新発田線とした第二防御線でも県道下流側の住民による必死の防御作業で第二防御線を死守したが、ここでも同様ないざこざや衝突があった。

〇他村からの抗議
 小阿賀野川の水位が上昇し危険になった時、小阿賀野川の沿岸の村々だけではなく亀田郷内の村も協力して水防活動を行ったが、その活動中に横越村大字二本木の五本榎で溢水が始まったという情報が各地で流れた。破堤地点は、五本榎樋管より上流100間(180m)にある加茂社から、さらに西に100間行った木津地区の水戸口であった。
 五本榎は二本木村、水戸口は木津村であったが、両小字(コアざ)とも面積的に狭かったため一部で誤解が生じ、「五本榎の樋管伏替工事の不完全により破堤した」とうわさが流れた。
 「五本榎破堤」の話が広がった8月29日、和田村から代表者が二本木に来て「五本榎で樋管の伏替工事が不完全であったため今般の破堤となり、我々の村は非常な損害を受けた。和田、舞潟、曽野木の住民が合同で二本木に押しかけ、二本木区長宅などを破壊して水害の損害要求をしようといった不穏な動きが広がっている。そのため調査に来た」と述べた。和田村の代表は、破堤地点が水戸口ということで納得して帰っていった。

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7.木津の水防対応

 横越村は、破堤の危険が迫っている村内の集落に手伝い人夫を派遣していたので、大字木津にも人夫派遣を申し入れたが、木津は「警鐘を鳴らせば数百人の人夫が集まるので必要ない」と横越村の申し入れを拒絶した。亀田郷の多くの集落では、木津の破堤は人夫と材料を使って対応すれば充分防げたものと考えられていた。
 木津の集落は、破堤発生時に土俵1俵、杭木1本持ちだして水防活動を実施した形跡がなく、住民は1人も破堤現場で堤防巡視や水防作業をしていなかった。木津の住民は、平日のごとく自分たちの仕事をしていた。
 横越本村から加勢人夫の応援連絡があったはずだが、「警鐘一点数百人が集まる。また材料も相当の準備がある」と言って拒絶しておきながら、なぜ破堤の惨害に至らしめたのだと糾弾された。
 人夫の加勢を頼むと人夫のための炊き出しや手間賃が村の負担となり、数百人の人夫の食事や手間賃が大きな負担となるため木津は加勢を断ったと思われる。
 近郷の集落の人夫だけでも総出で防御すればこのような惨状にならなかったはずだと多くの集落から指摘された。

8.まとめ

 戦前までの洪水対応は、現在のように河川管理者が実施するのと違い一義的には地域住民の役目であった。沿川の集落だけでは対応できないような大洪水に対する水防活動は近郷の集落も応援するシステム(亀田郷の場合は沿川の集落を応援する内陸の集落が決まっていた)になっていた。
 大正2年の阿賀野川の大洪水は、小阿賀野川左岸堤防を堤内地側から破り、右岸堤防を破壊するという例を見ないものであったが、右岸堤防の破堤は木津の集落の対応がまずく、そのために亀田郷ほぼ全域が水没した。
 前述のとおり木津は地元の負担をいやがり応援を断っただけではなく、水防活動自体をおこなわなかったため亀田郷ほぼ全体が水没するという大災害に発展したものである。そのことから木津の責任は重大である。
 現在は、河川管理者も水防活動を実施しているためか水防団の活動がにぶい。破堤等が発生すると住民は自分たち活動を棚に上げて、河川管理者の対応を問うような状況も見受けられるが、地元住民による水防活動やその後方での活動など自分たちの地域は自分たちの手で洪水から守るという意識を持って河川管理者と一体になって活動することが必要だと思う。

追伸

 この洪水で破堤した木津村の堤防の水戸止め工事(破堤箇所の締切り工事)は、新潟県の意向で民間業者ではなく亀田郷の農民が力を合わせて実施した。しかし、かかった費用の支払いで県とトラブルになり亀田郷は大きな借金を抱えざるを得なかってしまったことも申し添えておく。

(22023年12月作成)
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