《日本一の「響き鮎」を戻せ!》
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一方では「松原・下筌ダム建設」の後遺症に悩む人たちがいた。大山川の流域で生活をしている人達だ。大山町はかって産業政策のもと、電力需要の高まりから大山川の水利権を発電用として全水量を電力会社に売り払った。そのことが形として現れたのは松原ダム建設が行われ、その利水のため発電用のトンネルが山の中に完成したときだった。
水はわずかな河川維持用水を残しては、すべて両サイドの発電用トンネルを流れた。江戸時代、日本一の鮎と言われた「響き鮎」も姿を消した。あまりにも変わり果てた河川の惨状に昭和50年には町議会が音頭をとり「水流せ運動」が始まった。そして8年後、松原ダム再開発事業の名の下に毎秒1.5トンの河川維持流量が決定した。 この数字は集水面積100kuあたり0.1トンから0.3トンという、発電水利権の期間更新におけるガイドラインとして全国に定着した。しかし、川は蘇らなかった。
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