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ダム番号:1297
 
寺谷池 [三重県](てらたにいけ)


15/03
ダム写真

(撮影:だい)
136153 だい
161226 安部塁
192592 sagoH
192593 sagoH
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テーマページ 位置未確認ダムを探して…寺谷池
左岸所在 三重県伊賀市  [Yahoo地図] [DamMaps] [お好みダムサーチ]
位置
北緯34度46分10秒,東経136度14分13秒   (→位置データの変遷
[近くのダム]  田代池(4km)  真泥(4km)  大平池(5km)  滝川(6km)  竹谷池(8km)

河川 淀川水系服部川
目的/型式 A/アース
堤高/堤頂長/堤体積 15m/100m/21千m3
総貯水容量/有効貯水容量 15千m3/15千m3
ダム事業者 大山田村耕地整理組合
本体施工者 ダム事業者直営
着手/竣工 /1935
諸元等データの変遷 【05最終→06当初】堤高[15.5→15]
【06最終→07当初】河川名[服部川→兼平川]
【07当初→07最終】河川名[兼平川→服部川]
【12最終→13当初】本体施工者[大山田村耕地整理組合直営→ダム事業者直営]

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位置未確認ダムを探して…寺谷池

安 部  塁
1.はじめに

 三重県伊賀市の「寺谷池」は、ダム便覧では所在地が「伊賀市」と記載されているだけで住所も位置情報も記載がない全くお手上げ状態の位置未確認ダムでした。

 伊賀市は、平成16年に当時の上野市が伊賀町をはじめとする5町村と合併して誕生しました。事実上、旧上野市が中心となって近隣町村を吸収合併したものです。しかし、新しい市の名称は「伊賀市」です。この伊賀市のある伊賀盆地は、今から400万年ほど前までは地質学的に琵琶湖の湖底であったといわれ古琵琶湖などと呼ばれています。ところが、現在は大きな河川がないため、伊賀米を生産するためにおびただしい数の溜池が存在しています。

 ダム便覧では、寺谷池の所在地の記載が「伊賀市」にとどまっているものの、ダム事業者が「大山田村耕地整理組合」とされています。「大山田村」は伊賀市誕生に伴って消滅した村です。寺谷池に関する手掛かりは旧大山田村ということになります。

 住宅地図を利用して調べるのも手段のひとつですが、目星が全くない状態で住宅地図を開いても、ひたすらページをめくるだけです。また、寺谷池が必ずしも記載されているとは限らず、徒労に終わる可能性も大です。いくつかある候補の付近で、地元の方に聞いてみるのが結局は近道です。旧大山田村は、「田代池」や「大平池」からも近いため、この地を訪れるついでに少しでも情報が得られればと考え旧大山田村に向かいました

2.寺谷池のルート

 現在は伊賀市役所の支所となっている旧大山田村役場付近で、トラクターを運転していた方に尋ねてみると、当然のように寺谷池を知っていました。寺谷池は現地では有名なようです。今日はあくまで下調べまでと考えておりましたので、このように簡単にヒットするとは信じられませんでした。

 この方から教えていただいた寺谷池への行き方は、
■寺谷池はぁ…。この道を行くと、鳴塚古墳がある。その古墳より先は道が荒れているので古墳のあたりに車を止めてその先の坂道を歩いて登ればよい。
■坂道を上がった左側に池が2つある。手前の池が「山ノ神池」で、その横にあるのが、あなたが行きたい「寺谷池」だ。
■今日は寺谷池に行くのは無理かもしれないが、まぁ気をつけて行ってみなさい。
■鳴塚古墳までの道は、案内標識がいくつもあるので迷うことはないだろう。
という内容でした。

 農家の方は「今日は無理かもしれない」などと言っていました。どういう意味か確かめもしませんでしたが、この先に大規模な道路工事が行われていて通行止めがあるのかもしれません。しかし、位置確認までには難航を極めると予想していた寺谷池の場所がいとも簡単に判明しましたので、まずは目標とされる古墳へ向かうことにしました。

3.鳴塚古墳


鳴塚古墳。
 幸い、通行止めもなく標識に従って鳴塚古墳まで到着することができました。鳴塚古墳は考古学ファンがよく訪れるらしく、道案内の標識がしっかりと設置されておりました。この古墳は前方後円墳です。しかし、応神天皇陵古墳(大阪府羽曳野市)や大仙陵古墳(大阪府堺市、別称:仁徳天皇陵)などに比較するとはるかに小規模なものです。お濠も見当たりません。現地の説明板によれば壬申の乱で自決した大友皇子が被葬されている可能性もあるということです。本当に大友皇子の墓であれば、この古墳は宮内庁が管理するはずです。この場所には宮内庁の標識はありませんので、現地説明板の信憑性は考古学ファンが各自で判断してください。
 ともあれ、ここで車を止めて教えていただいたように坂道を登れば、寺谷池に到着できるはずです。


4.寺谷池

 現地に到着してみると、手前の山ノ神池が越流中でした。(山ノ神池は、堤高が15m未満であると思われ、河川法上のアースダムではありません。)そして、隣接する寺谷池も越流しています。

 ところが困ったことに山ノ神池の余水吐には橋が架けられていません。このためこれ以上は進めません。農家の方が「今日は無理かもしれない」と話していた理由がここでようやく判明しました。やはり地元の人は、事情をよく知っています。


手前が山ノ神池で、奥が寺谷池。
 この山ノ神池の堤頂を歩いて行かなければ、寺谷池まで行けない構造でした。したがって、山ノ神池が越流中で余水吐に降りて通ることが不可能であれば、寺谷池には接近できません。山ノ神池の越流量は、そう多くはないものの無理に渡って足をとられれば、その先にあるシュート部で頭蓋骨骨折の事故に会うかもしれません。今日はここまでとして後日リベンジを誓うしかありません。


寺谷池の下流面。
 下流面からも挑みましたが、杉林の下は水たまりが多くここまでが限界です。
 多くのダム愛好家の皆さんは、放流中のダムには格別の思いがあるでしょう。しかし、この寺谷池だけは例外です。私は、再訪する機会があれば絶対に越流していないことを強く望みます。
 念のため、伊賀上野図書館で住宅地図を閲覧してみたところ、やはりこの場所が寺谷池であることが確認できました。

5.最後に

 古墳に詳しい知人に教えてもらったところによれば、古墳は耕作不適格な土地に造られることが多いということです。そういえば、上野公園(東京都台東区)の西郷さんの後ろの方に「すり鉢山」という小山があって、現地に「前方後円墳の一部云々・・・」という標識があったことを急に思い出しました。

 古墳は、昔の豪族のお墓ですから、土地の有効利用を考えれば耕作不適格地に造ることは理に叶っています。一般に古墳は単独で造られることはなく、一族の墓地として古墳群を形成するそうです。この地にもかつては鳴塚古墳のほかに小さな古墳がたくさんあったことが推測できます。古墳時代には不毛の地であったこの地域も、溜池がつくられることによって肥沃な土地に変貌しました。土地を開墾することでおそらくは多くの古墳を壊してしまったと思います。これは考古学ファンの方には大変申し訳ないことですが、人が生きて行くための行為ですので祖先も許してくれることでしょう。

 伊賀盆地は、太古は琵琶湖の湖底であったため堆積物が幾重にも重なり良好な土壌であるそうです。豊富な水さえあれば良質な農作物が収穫できるそうです。寺谷池はダム便覧に掲載されるアースダムですが、便覧に掲載されない無数の溜池がこの地域で今も活躍していることを知っておくべきです。


(2010年3月作成)


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