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大谷池
(おおたにいけ)
愛媛県
苦難を乗り越えて築造
この地域は毎年のように干害と水害に悩まされてきたが、昭和5年の干ばつで稲は枯死、一望焼け野原のようであったという。南伊予村長武智惣五郎は私財を投入し、大谷池築造に取り組み、昭和6年伊予郡南伊予村3ケ町村用排水改良事業としてスタート、昭和9年室戸台風により基礎工事が流失埋没、工作機械もなくほとんど人力施工、まもなく、太平洋戦争に突入し、労務者と資金の不足が続いた。昭和17年に工事は愛媛県営事業に移行、苦難を乗り越え昭和20年4月に竣工式を迎えた。
小河内
(おごうち)
東京都
完成までに長い道のり
小河内ダムの築造計画は古く大正15年に遡り、当時の東京市会が将来の大東京実現を予想して水道事業上の百年の長計を樹てるべきだとしたことから、調査が開始され、昭和7年、東京市会で小河内ダム築造計画が決定された。その後、多摩川下流、神奈川県側の二ヶ領用水との間で水利権を巡る調整に時間がかかったこともあって、総合起工式が行われたのは昭和13年であった。用地買収が進んだが、戦争中に一時中断、昭和23年再開。工事は、昭和13年に付け替え道路工事が始まり、順次進み、しかしこれも戦争で18年に中断、23年に再開。28年に本体の定礎式があり、竣工式は32年11月。完成に長期を要したが、今都民の水瓶として大きな役割を果たし、大正にはじまる計画の先見性が賞賛される。
和池
(かのういけ)
長野県
戦後建設の溜池
敗戦後食糧難の時代に農林省の「防災ため池」建設計画の一つとして全額国庫負担で昭和22年に着工。村内全戸の労力提供を前提に事業が進められた。その後、昭和24年に緊縮財政による国庫補助打切で工事が中止に。昭和26年に県単補助事業により工事再開、昭和28年12月にようやく完成。平成9年から13年にかけて取水施設、余水吐等の改修も行われた。
上椎葉
(かみしいば)
宮崎県
難工事を克服
建設には、総工費149億円を投じ、延べ500万人を動員。例年の台風に悩まされるなど工事は難航、105人の尊い命が犠牲に。女神公園には犠牲者105名の霊を慰める女神像が立てられている。
黒部
(くろべ)
富山県
断崖絶壁の難工事はプロジェクトXでも取り上げられる
2000年6月27日放送のNHKのプロジェクトX「厳冬 黒四ダムに挑む」。ダムの難工事の最大の焦点は、断崖絶壁がそそり立つ秘境・黒部に、60万トンにおよぶ資材をいかに運び上げるかだった。ダムの本体工事を受注した間組は、壮大な輸送作戦を展開。
黒部
(くろべ)
富山県
関西電力が社運をかけて建設
昭和31年工事着手。時の関電社長太田垣士朗が自ら陣頭指揮。7年の年月をかけ、当時の金額で513億円の工費、のべ1000万人の人を動員。総工費513億円は、当時の関電の年間電気収入の約半分にあたり、現在の貨幣価値だと1兆円を超えるとも。後に映画「黒部の太陽」になった大町トンネルが大破砕帯にぶつかるなど、相次ぐ困難を克服し、ついに完成。関西電力にとってはまさに社運をかけた一大プロジェクトだった。
相模
(さがみ)
神奈川県
相模川で最初の大ダム
昭和15年11月に起工式が行われ、22年に竣工。水没戸数が130戸と多く、戦時中に建設が進められたため戦争で一時工事が中断、工事殉職者が56名にのぼるなど、困難を乗り越えての完成だった。堤高58.4m、相模川で最初の大ダム。本格的な多目的ダムで、戦後の経済復興に大きな役割を果たした。
桜ヶ池
(さくらがいけ)
富山県
元は陸軍演習地だった
この地域は元々陸軍演習地の中央に位置していて、戦前のことで貯水池の築造が困難と思われていたが、たびたび渇水に見舞われた地域住民の熱意により、昭和16年、工事を開始。戦時中のため人手不足と軍の実弾演習のため難航したが、戦後、災害復旧に使われていた大型機械を借り受けるなどして、昭和29年、ついに完成。
田瀬
(たせ)
岩手県
戦中・戦後の困難を乗り越えて建設
戦時中はセメントの品質が極度に低下。アメリカで開発されたコンクリート中に微細な空気泡を混入してコンクリートの性質を改善する方法(AEコンクリート)を採用。戦後、国内でAEコンクリートを採用したのは田瀬ダムが最初。ダム建設は戦争のため、6年間中断。再開時、堤体コンクリート約37,000m3が4ブロックにわたって打設途中だった。表面が風化し品質が劣化。そこで表面をはがし、新しいコンクリートを打ち継ぎ、包み込む。取り壊し数量は5,829m3にのぼった。当時、土木機械不足で宮城刑務所の囚人40人を使ったという。
鳥取池
(とっとりいけ)
大阪府
元は溜め池だった
鳥取池は、灌漑用溜め池(土堰堤)で、戦時中の昭和19年に着工し、昭和23年に完成。戦時中の資材不足の下で拙速に築造されたとも言われ、昭和27年7月の豪雨の際に決壊し深刻な被害をもたらした。その後、農業用の重力式コンクリートダムとして復旧工事が行なわれ、昭和33年に完成した。
藤波
(ふじなみ)
福岡県
特殊な地質条件を克服
右岸側の基礎地盤には泥質砂礫層が分布し、その下部に隣接する合所ダムの貯水と連動する被圧地下水ゾーンが存在するというダムサイトの特殊な地質構造に対応するため、遮断カーテングラウチングなどの対策を実施して基礎地盤と堤体の安全性を確保した。
湯田
(ゆだ)
岩手県
難局を乗り越えて完成
当初重力式コンクリートダムとして計画されたが、鳴子ダムがアーチダムとして施工されたこともあり、アーチダムも検討、基礎部に断層などがあり、結局重力式アーチダムとなった。数々の難局、難工事を克服。特に、本体打設工事中の昭和36年4月、右岸仮排水トンネル上部で大陥没事故が発生、一時はダム形式の変更をも考慮する重大事態となったが、上半部をコンクリート置換、下半部をグラウトにより固結させることで乗り切った。昭和38年11月一部湛水、昭和39年12月25日本体建設工事完了。