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全項目表
 
ダム番号:848
 
黒部ダム [富山県](くろべ)
 [別名]黒四ダム(くろよん)

11/09
ダム写真

(2003.05 撮影:安河内 孝)
050136 Dam master
050145 Dam master
050158 Dam master
046770 安部塁
050129 Dam master
009742 水の週間実行委員会
061711 だい
019824 NAUTIS
075649 ジャワ
080922 安河内孝
080991 安河内孝
081029 安河内孝
D-shot contest 入賞作品   → ダム便覧トップ写真   → フォト・アーカイブス [ 提供者順登録日順 ]
どんなダム
 
堤高日本一、巨大アーチダム
___
堤高186mの巨大アーチダム。日本の全てのダムの中で堤高が最も高い。50階建ての高層ビルよりも高いそうだ。アーチダムとしては、堤高のほか、堤頂長、堤体積が日本一、総貯水容量は4位。
[写真]工事中
戦後復興期の電力不足解消のために建設
___ 電力供給が国家的課題だった戦後復興期に、関電は最新鋭の火力発電所を導入したが、火力は需要の変動に合わせてきめ細かく対応することができないため、それを補う大規模な水力発電所が構想された。当時、関電が水利権を持ち、大規模な水力発電所が建設可能な河川は黒部川しかなかったので、大田垣社長の決断で建設が開始された。
関西電力が社運をかけて建設
___ 昭和31年工事着手。時の関電社長太田垣士朗が自ら陣頭指揮。7年の年月をかけ、当時の金額で513億円の工費、のべ1000万人の人を動員。総工費513億円は、当時の関電の年間電気収入の約半分にあたり、現在の貨幣価値だと1兆円を超えるとも。後に映画「黒部の太陽」になった大町トンネルが大破砕帯にぶつかるなど、相次ぐ困難を克服し、ついに完成。関西電力にとってはまさに社運をかけた一大プロジェクトだった。
黒部川第四発電所
___
発電専用ダムで、黒部川第四発電所が10km下流の地下150mのところに設置されている。昭和38年6月完成。最大33.5万kWの出力を誇る。
[写真](撮影:Dam master)
ウィングダム
___
アーチダムだが、両翼に重力式コンクリートウィングダムを持つ。コンクリート打設開始後、昭和34年12月、南フランスのマルパッセ・アーチダムが大洪水で崩壊、死者行方不明者が 500人に及んだ。資金の提供者世界銀行は黒四ダムの現場に調査団を派遣し、ダムの高さを下げることを勧告。高さを下げることはしなかったが、岩盤が予想外に悪かったこともあって、設計を変更してアーチの両端に重力式のウィングダムをつけた。
[写真](撮影:安河内孝)
石原裕次郎主演、映画「黒部の太陽」
___ 黒部ダムは「黒部の太陽」の舞台。大破砕帯にぶつかった大町トンネル建設の物語。岩岡剛(石原)はトンネル掘りのためにはどんな犠牲も省みない父に反抗し、家を出て設計技師として図面をひいていたが、父の様子を見に黒部に行ったとき、現場責任者・北川(三船)の熱意を見て、父に代わってトンネル掘りの指揮を取る。関電社長の太田垣は危機を乗り切るため莫大な資金を投入。北川や剛らの努力が実を結び、難所を突破。監督熊井啓。三船敏郎、滝沢修、志村喬、辰巳柳太郎、宇野重吉、芦田伸介、佐野周二、高峰三枝子、樫山文枝等が出演。
映画「ホワイトアウト」のロケ地
___ 2000年公開の映画「ホワイトアウト」のモデルは奥只見ダムだが、ロケ地は黒部ダムだった。日本最大の貯水量を誇るダムがテロリストグループに占拠されるという話で、日本映画史上空前のアクション大作といわれ、大ヒットした。監督:若松節朗、原作:真保裕一、出演:織田裕二、松嶋奈々子、佐藤浩市など。黒部ダム付近を中心に100日以上に及ぶ過酷なロケを敢行。
断崖絶壁の難工事はプロジェクトXでも取り上げられる
___ 2000年6月27日放送のNHKのプロジェクトX「厳冬 黒四ダムに挑む」。ダムの難工事の最大の焦点は、断崖絶壁がそそり立つ秘境・黒部に、60万トンにおよぶ資材をいかに運び上げるかだった。ダムの本体工事を受注した間組は、壮大な輸送作戦を展開。
中島みゆき、紅白で黒四から生中継
___ 2002年大晦日、紅白に中島みゆきが初出演。プロジェクトXの主題歌「地上の星」を歌う。会場ではなく、気温が氷点下20度近くまで下がる厳冬の黒部ダムから生中継。黒部ダムから黒部川に沿って10kmほど下流に、地下200mの黒四発電所と欅平とを結ぶトンネルがある。普段は関電従業員や資機材などを運ぶ列車が行き来する。そのトンネル中でワインレッドのロングドレスに身を包み「地上の星」を熱唱。感動的な映像。
立山黒部アルペンルートのメインスポット
___ 立山黒部アルペンルートは長野県信濃大町から富山市までの約100kmを結ぶ世界的な山岳観光ルート。昭和46年に開通。美女平・室堂・大観峰・黒部ダムを経由。アーチダムの作り出す雄大な景観。平成15年6月には黒部ダム建設四十周年を記念して、迫力の観光放水が見られる新展望広場がオープン。落差100m以上の放水は壮観。年間数百万人が訪れる。
中部山岳国立公園
___ 黒部ダム周辺は中部山岳国立公園に指定されている。このため特別天然記念物のニホンカモシカ、雷鳥などの動物の捕獲、高山植物の採取、工作物の設置等に制限が課せられている。
切手になったダム
___
平成6年4月25日「黒部渓谷と黒部ダム郵便切手」が発売された。80円の「ふるさと切手」。原画作者は、齋藤清策氏(日本画家)。緑に包まれた渓谷と、上部に黒部ダムが配されている。
正式名の他に呼び名がある
___ 正式名は黒部ダムだが、黒四ダムとも呼ばれる。当初、ダム自体に正式名称はなく、発電所が黒部川第四発電所だった。ダムは、仮称で黒四ダムと呼ばれた。その後、正式名称が黒部ダムに。ダム湖は黒部湖だが別名太田垣湖。大町トンネルは関電トンネルとも呼ばれる。
三浦洸一が歌った「ああダムの町」
___ ダム建設中の昭和31年に発表された。佐伯孝夫作詞、吉田正作曲。三浦洸一が歌った。「・・・歌も身に沁む ああダムの町」。ところで、この歌は黒部ダムの歌なのか。竹林征三「我が町の宝・湖水の花」に、「佐伯孝夫が黒部ダム建設に携わった人々の思いをテーマとして作詞し」とあり、これからすると黒部ダムの歌ということになりそうだ。しかし一方、黒部ダムの本格的工事は昭和33年4月からで、タイミングが合わないなどの理由で、佐久間ダムなど他のダムではないかという意見もあるようだ。果たして真相は? ただ、歌詞の内容が、建設従事者の気持ちにピッタリで、当時黒部ダム建設の携わった人々はこの歌を愛唱したことは事実のようだ。
流木が名刺ケースになった
___
かんでんエルファームは、黒部ダムなどに漂着した流木を再生利用して、フラワーポット、名刺ケースなどの商品を開発。これが人気だという。
黒部ダムカレー
___
ダムレストハウスで、「黒部ダムカレー」が食べられる。カレーライスだが、ダムに見立てて、ご飯で堤体を作り、カレーのスープがダム湖。1000円と結構いい値段だが、見たところそれなりにデラックス感が。味の方はどうか?
[写真](撮影:だい)
ダム湖は「黒部湖」
___ 昭和38年の竣工式の時に命名。時の関電社長の名を取って太田垣湖とも呼ばれる。エメラルドグリーンの水を満々とたたえ、静かにたたずむ。湖面には、日本最高標位を航行する遊覧船「ガルベ」が走り、北アルプスを見上げながら雄大な大自然を満喫できる。
シリーズ ダム百選 投票から
第 1 回  『 もう1度行きたいダム 』
■ 存在感がピカイチ。日本一の規模、日本アルプスの秘境にあり、美しいフォルム。周囲の自然とノシンメトリーが一層、何かを訴えかけてくる力を増してくる。 (31〜40歳 男)
■ 人間の英知を感じられ、大自然に溶け込んでいて、行くだけで感動できるから。自分が行くだけでなく、見たことのない人にも是非行ってほしいダム。スケールと見事な曲線美をもう一度見たい (31〜40歳 男)
■ わたしの生まれ故郷;立山町です。今は地元を離れて生活しています。亡き祖母が山が大好きで二人で訪れました。人工の建造物なのに深い山に抱かれ自然と見事に調和しており、圧倒的なスケールに毎回感動しています。黒部ダムを背景に祖母と撮影した写真を見ると、空を仰いで合掌する祖母の嬉しそうな姿に涙してしまいます。わたしと祖母を繋ぐ大切な場所が黒部ダムです。今年はいとこと一緒に訪れようと計画しています。 (21〜30歳 女)
■ ダムの巨大さや、ダム湖と山々の自然との調和美に、もう一度ゆっくりふれてみたい。 (51〜60歳 男)
■ とにかく美しい (41〜50歳 男)

第 3 回  『 冬に行きたいダム 』
■ 昨年は夏に行きましたが、迫力ありましたねえ。今度はロープウェイを乗り継ぎ山頂まで行き絶景を見たいと思いました。 (31〜40歳 男)

第 16 回  『 家族で行きたいダム 』
■ 大きいから。放水の時のザーという音が好きだから。 (たぬき)

第 19 回  『 がんばっているダム 』
■ 竣工から今年で50周年という歴史に黒部ダムを挙げさせて頂きます。私から「がんばっている」とは恐れ多いですが、色んな事があり50年を迎えました。ダムの年齢ならまだまだ若いし、これからもがんばっていてほしいし、いつまでも素晴らしいダムでいてください。
前回の「◯◯に感動」の際、大滝ダムで応募したとき同様、写真のupが上手く出来なくて残念ですが、2013年9月28日に黒部ダム50周年記念イベント「ダムライトアップ&星空鑑賞」に見事当選し参加して参りました。
なかなか見ることが出来ない、夜の黒部ダムの顔も美しく、やはり温かみや優しさを感じました。イベント当日はスタッフの気配りもよく、楽しいイベントとなりました。
ありがとうございました。所長さんも色々なお話に、ダムカードの撮影にとありがとうございました。お疲れ様でした。いつまでも素敵なダムでいてください。 (清水 正貴)


第 20 回  『 電車やバスで行けるダム 』
■ トロリーバスはもちろんケーブルカーやロープウェイ・トロッコ電車を乗り継いで行く黒部ダムは不思議な魅力があります。 (Jake)
テーマページ 比べてみよう、世界と日本  〜ダムの堤高〜
黒部ダム建設の記録
写真集・黒部ダム<初夏・盛夏・秋>
東京で食べられる「ダムカレー」
第2回 D-shot contest 〜こんな写真も〜
このダムどんな人? ・・・ダムの擬人化イラスト集・・・
ダムインタビュー(49) 足立紀尚先生に聞く 「ダムの基礎の大規模岩盤試験を実施したのは黒部ダムが最初でした」
ダムインタビュー(48) 吉津洋一さんに聞く 「先人から受け継いだ素晴らしい‘くろよん’をしっかり守り、引き継いでいきたい」
第8・10・11回 「水とのふれあいフォトコンテスト」 受賞作品
石原裕次郎と映画「黒部の太陽」
ダムを撮る
ダムの書誌あれこれ(23) 〜黒部川のダム(仙人谷・黒四・宇奈月)〜
ダムの書誌あれこれ(5) 〜小説を読む〔上〕〜
ダム湖流木をリサイクル(かんでんエルファーム)
(財)ダム技術センター第19回「ダムフォトコンテスト」受賞作品
「理の塔、技の塔」 〜私説・戦後日本ダム建設の理論と実践〜 (6) アメリカに追いつけ、追い越せ!戦後のダム技術開発
ダム切手コレクション
第22回 「水とのふれあいフォトコンテスト」 受賞作品
第2・3回 「水とのふれあいフォトコンテスト」 受賞作品
第16回 「水とのふれあいフォトコンテスト」 受賞作品
第13・14回 「水とのふれあいフォトコンテスト」 受賞作品
平成19年度 「森と湖のある風景画コンクール」 受賞作品
平成17年度 「森と湖のある風景画コンクール」 受賞作品
平成元年度〜平成6年度 「森と湖のある風景画コンクール」 受賞作品
「黒部の太陽」:今も輝く映画の金字塔・その現代的意義
「理の塔、技の塔」 〜私説・戦後日本ダム建設の理論と実践〜 (11) 電力需要急増・河川一貫開発・河川法全面改正
このごろ ダムをうたう(5) -慰霊碑-
黒四ダム慰霊碑に思う
何があったのだろう
黒部YEARと黒四スピリッツ
「黒部の太陽」ショック
ドラマ版「黒部の太陽」に思う
黒部ダムは今
ダムをうたう(15) -ああ黒部川 第四発電所-
DVDを見ながら思った
黒部ダムカレー食べてきたよ
オリジナルフレーム切手「大自然を体感!黒部ダム」が発売に。
大滝ダムのケーブルクレーン
サークルKサンクスの「黒部ダムカレー」
映画のチラシ「黒部の太陽」
映画「黒部の太陽」のノーカット版を見た
「黒部の太陽」ノーカット版が東京東銀座の東劇で上映される
DVD版「黒部の太陽」が届いた
第2回 土木 a la mode「黒部ダムVS 宮ヶ瀬ダム」〜人を惹き付ける魅力はどこに?〜
先輩からDVDBOX特別版の『黒部の太陽』を借りました
「土木 a la mode 黒部ダム VS 宮ヶ瀬ダム」を見てきた
浜松の黒部ダムを見に行ってきました
左岸所在 富山県中新川郡立山町大字芦峅寺  [Yahoo地図] [DamMaps] [お好みダムサーチ]
位置
北緯36度33分59秒,東経137度39分44秒   (→位置データの変遷
[近くのダム]  仙人谷(9km)

河川 黒部川水系黒部川
目的/型式 P/アーチ
堤高/堤頂長/堤体積 186m/492m/1582千m3
流域面積/湛水面積 188.5km2 ( 直接:184.5km2 間接:4km2 ) /349ha
総貯水容量/有効貯水容量 199285千m3/148843千m3
ダム事業者 関西電力(株)
本体施工者 間組
着手/竣工 1956/1963
ダム湖名 黒部湖 (くろべこ)
ランダム情報 【ダム湖百選】(財)ダム水源池環境整備センターのダム湖百選に選定される(H17.3.16公表)
【ダムの歌】「ああダムの町」 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 歌:三浦洸一。 昭和31年11月発表、これが黒部ダムの歌であるかについては、疑問もある。
【ダムの歌】「黒部四代」 作詞:永六輔 作曲:いずみたく 歌:デューク・エイセス。 デュ−ク・エイセスが工事現場を見学したとき、工事に携わる人々を前にして歌ったという。
【ダムカード配布情報】H26.4.1現在国交省資料 Ver1.0
○@黒部ダムレストハウス売店A扇沢駅売店 @黒部ダムレストハウス売店:7:30〜16:50A扇沢駅売店:8:30〜18:00※時期により配布時間に変動あり。詳しくは黒部ダムオフィシャルサイトをご参照下さい。※4月中旬頃〜11月下旬(土・日・祝日を含む)※ダムへ行った証明として、関電トロリーバスの乗車券の提示が必要。
内部リンク ダムギャラリー・第1展示室
リンク alpendam・黒部ダム
BATTLE THROUGH 〜WHITEOUT資料館〜
Dam master・黒部ダム
DAM Photographer・あまりにも天気が良いので・・・
DAM Photographer・ちょっと黒部まで・・・(1)
DAM Photographer・ちょっと黒部まで・・・(2)
DAM Photographer・ちょっと黒部まで・・・(3)
DAM Photographer・ちょっと黒部まで・・・(4)
DAM Photographer・ちょっと黒部まで・・・(5)
DAM Photographer・ちょっと黒部まで・・・(6)
DamDrive・【放流動画】 黒部ダム放流 (2010/08/14)
DamDrive・黒部ダム(おまけ)
DamDrive・黒部ダム(その1)
DamDrive・黒部ダム(その2)
Damnist・黒部ダム
Dam's room・黒部ダム
damsite・ダムデータ
damsite・ダム写真集
Damstyle・黒部ダム
kazu_ma’s WALKING-DIARY・黒部ダム
kazu_ma’s WALKING-DIARY・黒部ダム ライトアップ&星空鑑賞会
NAUTIS’s Site・黒部ダム
THE SIDE WAY・黒部ダム
ウィキペディア・黒部ダム
ダムどら・黒部ダム
ダムペディア・0848-黒部ダム/くろべだむ
ダムペディア・ドライブコース
ダムマニア・黒部ダム
ダムマニヤ倶楽部・黒部ダム
ダム湖の風景・黒部ダム
ダム好きさん【黒部ダム】
ダム便覧保存館・水がめ便り・黒部ダム
ピンクのうさぎ ダムめぐり・7月7日 黒部ダムトレッキング 初級
ピンクのうさぎ ダムめぐり・8月7日 黒部ダム監査廊見学会
ピンクのうさぎ ダムめぐり・9月28日の黒部ダム 黒部ダムライトアップ&星空鑑賞イベント
ピンクのうさぎ ダムめぐり・関西電力黒部ルート見学に行ってきました。
ピンクのうさぎ ダムめぐり・黒部ダムトレッキング その2
ピンクのうさぎ ダムめぐり・黒部ダムトレッキング無事終わって。
ピンクのうさぎ ダムめぐり・黒部ダムライトアップ&星空鑑賞イベント その3
ピンクのうさぎ ダムめぐり・黒部ダムライトアップ&星空鑑賞イベントその2
ピンクのうさぎ ダムめぐり・黒部ダム監査廊見学 その3
ピンクのうさぎ ダムめぐり・黒部ダム監査廊見学会 その2
ピンクのうさぎ ダムめぐり・黒部ルート見学 その2
ふるさと切手「富山・黒部峡谷」
黒部ダム 開かれた秘境(社団法人日本土木工業協会)
黒部ダムオフィシャルサイト(Kuroyonkanko Co.,Inc./KEPCO Kansai Electric Power Co.,Inc)
黒部の太陽
水力ドットコム・黒部川第四発電所
水力発電所とダムに行ったおはなし・黒部ダムに来た
雀の社会科見学帖・黒部ダム見学 その1
続・ひとりよがりの映画評論・黒部の太陽
棒ふりの休憩室・ダムの写真集
参考資料
■黒四ダム、そして立山黒部アルペンル−ト:笹倉慶造
【ダム日本 No.496(S61.2)】
関連書籍 ■木本正次 『黒部の太陽』 講談社 1966
■梅棹忠夫、冠松次郎、足立巻一、安川茂雄 『クロヨン』 実業之日本社 1963
■建設省黒部工事事務所 『黒部川のあゆみ』 建設省黒部工事事務所 1977
■木本正次 『黒部の太陽』 信濃毎日新聞社 1992
■宇佐美省吾 『黒部ダム アルプス征龍記』 日本コンツェルン 1960
■建設省黒部工事事務所 『黒部川のあゆみ (資料編)』 建設省黒部工事事務所 1978
■前川康男 『黒部ダム物語』 あかね書房 1976
諸元等データの変遷 【05最終→06当初】流域面積[188.5→184.5]
【06当初→06最終】流域面積[184.5→188.5]
【06最終→07当初】河川名[黒部川→上山田川]
【07当初→07最終】河川名[上山田川→黒部川]

■ このごろ → このごろ目次
黒四ダム慰霊碑に思う

 
『このごろ』に掲載されている『ダムをうたう(5) -慰霊碑-』を拝見しました。私は人跡未踏の黒部川の上流で佐藤工業の社員として黒四ダム建設に従事した経験があり、感慨深いものがありました。

私が黒四ダム建設に従事したのは黒四ダム(第4工区)建設工事の着工より2年間(s.31.7〜s.32.12)でした。
仙人谷から作廊谷基地(標高1320m)まで標高約500を2時間かけて登り、初年度は地下火薬庫や仮設宿舎を作り、その後160mトンネル内に越冬地下宿舎(170人収容)を完成、翌32年地下室では健康に良くないので鉄筋コンクリート5階建を建設しました。
土木屋でなく建築屋の為 s.32.12末下山しました。

今でも当時の記録写真が200枚程あります。
そのうちの乗込み時点(s.31.秋)の写真の一部を以下に紹介します。

(写真1)


黒部川の東谷から、約450mn作廊谷基地まで、s.31.10.11 からトラムウエーが完成したので、約15分間荷台の上に乗った時の写真です。谷間が見える上流 10kmがダム地点です。労働基準監督署も歩くより安全なので乗車していました。
s.31.7.1乗込み時よりトラムウエーが完成までは、危険な尾根を2 時間両手で岩や雜木を掴んで登ったり、梯子を昇り降りしました。
人用のボックスは翌年秋完成しました。

(写真2)


作廊谷基地の対岸で、下廊下の参道を歩いている22歳の自分です。
120mの谷底を眺めて幅50〜60cm丸太の上をワイヤに掴みながら歩きました。

(写真3)


コダックフイルムを取寄せて撮影した下廊下の紅葉です。
陽があたる午前11時頃から2〜30分広角レンズしか撮影できません。

◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

171人の尊い犠牲者には、佐藤工業の社員が2名と労務者32名が含まれます。殉職者171名の内
 墜落事故60名 (35%)
 落盤事故48名(28.7%)
です。


046770 安部塁

黒四ダム建設慰霊碑「六体の人物像」の作者は松田尚之(1898生まれ 88歳没)です。富山県富山市出身、(当時)京都学芸大学教授、日展評議員、審査員、学術員会員で、「六体の人物像」は昭和32年度芸術院賞を受賞しました。

6体の人物の右から2番目のモデルは佐藤工業下請け業者慶伊組 社長 谷端正宗です。(最盛期 坑夫・労務者1300人の日本一の親方)
6体の人物のお一人が、熊谷組の笹島さんがモデルと聞いていましたが、過日熊谷組本社経由で本人に確かめましたが記憶がないとのご返事でした。
半世紀前のことなので誰がモデルかわからず誠に残念です。しかし「モデル」がいたはずです。

今年大町トンネルが完成して50周年目にあたります。
建設工業新聞のインタビュウーを近く受けます。
(H20.5.22、小村秀夫)


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ダムインタビュー(48)
吉津洋一さんに聞く
「先人から受け継いだ素晴らしい‘くろよん’をしっかり守り、引き継いでいきたい」

くろよん建設の決断

中野: 3000m級の山々のすぐそばの黒部川最上流部にあるダムは、なぜここにダムを…という程、難易度の高い事業に思えますが、そこまでしても関西電力としてはどうしても水力発電をやらなければならなかったのでしょうか?初代社長の太田垣氏の思いとして、今でも社内に伝わっているエピソードはありますか?

吉津: 太田垣のエピソードはいろいろありますが、その中でも私が好きなのは「経営者が十割の確信をもって取りかかる事業、そんなものは仕事のうちに入らない。七割の可能性があれば勇断をもって進める。そうでなければ本当の事業はやれるものではない。」というメッセージです。昭和30年秋、戦後復興需要で電力不足が大きな社会問題となる中で、それまで火力よりも水力を主体として開発を進めてきた電源構成が、やがてベース負荷を火力が担い、ピーク負荷を水力が担う火主水従に変わることを予見した太田垣は、負荷調整力に優れる貯水池式発電所がどうしても必要になると確信し、社運を掛けて、前人未到の黒部奥山に黒四を建設することを決断しました。ところが、着工後まもなく、建設資材輸送の要である大町トンネルが大破砕帯に遭遇したんです。

中野: そうですね。太田垣社長は、自ら現場に行かれたという話をお聞きしました。

吉津: 昭和31年8月に大町トンネル掘削工事が開始されたのですが、翌32年5月に破砕帯に遭遇しました。掘削を続行するか他のアクセスを考えるか、大きな決断をする時だったのですが、太田垣社長は現場に出向き、危険だからと部下が止めるのも聞かず、仕事を依頼した自分が行かなくてどうするのかと言って水が吹き出す切羽まで行きました。その時一緒に行かれたのが、当時の熊谷組笹島班の班長(現笹島建設会長)笹島信義さんだったのです。
 切羽で、太田垣は「どうだ、掘れるかね」と笹島氏に問いかけ、「なんとかなるでしょう」という答えが返ってきたことで、このルートを維持することを決めました。そして宇奈月で、笹島氏に、「日本の土木の名誉にかけて堀り抜いてください」とはがきを書いています。危険な現場にもかかわらず切羽へ行き、作業員に声をかけた太田垣の、何としても掘り抜きたいという思いが関係者全員に伝わりました。笹島氏によれば、これでトンネル作業員の意識がガラッと変わったそうです。
 太田垣は本社に戻り「エンピツ1本、紙1枚を節約して、黒四に手を貸そう」と呼びかけ、社員全員にくろよんを支援しようという機運が広がっていきました。
 少し話しが外れますが、3.11以降、原子力発電の安全性が大きな社会問題となる中で、大きなプレッシャーを受けながら、2年前の7月から昨年9月まで安全・安定運転を完遂した大飯3,4号機の運転員やメーカーの皆さんに対し、関西電力社員が全社をあげてエールを送りましたが、今も「くろよんスピリット」がしっかり受け継がれていることが実感できた出来事でした。

黒四を支援する、くろよんスピリット

中野: 全社一丸となって、苦難を乗り越えていかなければならない試練の時だったのですね。ところで、笹島様は、今年、秋の叙勲で瑞宝単光章を受けられましたね。

吉津: 熊谷組の大田会長にお聞きした話ですが、最初は自分は勲章をもらうような人間ではないと固辞されておられたようですが、破砕帯突破の労苦を共にした仲間のために受章してほしいという声に背中を押されたと聞いています。受賞されてほんとうによかったと思います。

 ・・・→ 全文はこちら
(平成26年1月作成)



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石原裕次郎と映画「黒部の太陽」

 2003年7月9日、日本映画の大スター、石原裕次郎の17回忌法要がまき子夫人や兄の石原慎太郎東京都知事、俳優渡哲也など関係者約400人が出席して、東京都港区のホテルで営まれた。石原都知事は「戦後日本が最も期待に満ちた時代に、弟が新しい青春像を演じることができたのは幸せだった」と話したという。

裕次郎が情熱を注いだ「黒部の太陽」

 石原裕次郎といえば、映画「黒部の太陽」が思い起こされる。裕次郎は数多くの映画に出演しているが、「黒部の太陽」は、その中でも裕次郎が最も情熱を注いで製作した、裕次郎にとって特別の意味を持つ映画であった。
「人生を振り返ってみれば、どれもこれも一生の思い出だけど、その中でも、
 (やっぱりあのときは)
 と、思うのは、やはり『黒部の太陽』だな。」
       (末尾の参考文献1より引用)
 裕次郎は自ら、生涯で第1番の映画だと語っている。それはなぜか。

スター石原裕次郎の誕生

 裕次郎は、「太陽の季節」(1956年)で映画界にデビューする。「太陽の季節」は、兄・慎太郎が一橋大学在学中に書き、芥川賞を受賞した小説を、日活が映画化したもの。裕次郎は兄の勧めで、気楽な気持ちで映画「太陽の季節」に脇役で出ることになり、わずかなシーンにしか出演しなかったが、長門裕之、南田洋子らの出演俳優の中でも、誰よりも目立った存在であったという。映画は大ヒットした。当時20才、慶応大学3年に在学中であった。
 日活は裕次郎の本格的な主演作を準備。それが、北原三枝との共演となった「狂った果実」(1956年)で、実質的なデビュー作である。ここに、スター石原裕次郎が誕生する。

大スターへの道を歩む

 日活は、裕次郎の人気に乗って次々と主演作を製作していく。「俺は待ってるぜ」(1957年)、「嵐を呼ぶ男」(1957年)、「錆びたナイフ」(1958年)、「陽のあたる坂道」(1958年)、「風速40米」(1958年)など、数え上げたらきりがない。1959年には、年間9本という驚くべきペースだった。そしてそれが全てヒットしたという。大スターへの道をまっしぐらに歩んでいたかに見えるが、一方では裕次郎にすれば、日活の営業方針に沿ってお仕着せの規格に耐え、オーバースケジュールに耐え、そしてスター故の不自由さに耐えていたのかもしれない。

「五社協定」という怪物

 当時は、映画が最大の娯楽であった。日活は、1953年に映画製作を正式に再開する。そのころ、既存の映画会社は、松竹、東宝、大映、東映、新東宝の5社あったが、日活は再開に備え、これら既存の各社から監督や製作スタッフを引き抜くような動きをしていた。既存五社のトップは集まって、日活の動きを牽制しようとした。これが、「五社協定」と呼ばれるものの始まりだという。
 その後、新東宝が解散し、日活を加えた新たな五社が、申し合わせを行うなどして、スターたちの自由を封じ込める機能を果たすようになり、映画俳優たちに恐れられた。五社協定の最初の犠牲者は山本富士子だといわれる。大映の起用方法に不満を持ち、1963年の契約更改を巡って大映と話し合いが決裂、ついに五社の映画から追放されてしまう。「五社協定」という姿なき怪物の出現である。裕次郎はスターの自由を取り戻すべく、その怪物と果敢に戦うことになる。

「石原プロモーション」を設立

 1962年12月28日、28才の誕生日に、裕次郎は帝国ホテルで会見して独立プロ設立宣言を行う。突然の出来事であったが、これによって翌63年1月に「石原プロモーション」が設立された。会見の席上後見人的立場で同席した兄の慎太郎は「来る日も来る日も会社のお仕着せ企画で、演りたいものもできないのでは、男子の本懐が立つまい」という趣旨のことを話したという。また、後に自らも、
「(映画を自分で作れないか)
 という気持ちは以前からあったんだ。
 閉鎖的な日本の映画界に、ついていけない部分があったからね。」
       (末尾の参考文献1より引用)
と語っている。
 石原プロの第1回作品は、若干20才の堀江謙一青年が単身ヨットで太平洋を横断して一躍ヒーローとなった、その実録を映画化した「太平洋ひとりぼっち」(1963年)であった。日活との共同製作であり、芸術大賞を受賞するなど評価は高かったが、興行的には余り成功とはいえなかった。

三船敏郎と組んで「黒部の太陽」の映画化に挑戦

 その後裕次郎は、世界にも知られた大スター、三船敏郎との共演を企図する。三船もまた、「三船プロダクション」という独立プロを設立していた。1964年の秋、二人は突然記者会見して、ともに映画を作ると発表した。夢の共演が実現するかに見えたが、実現までの道のりは長かった。日活がOKを出さなかったからともいわれる。それでもあきらめずについに、1966年11月、二人は再び記者会見をする。石原プロ、三船プロは共同で、毎日新聞に連載された木本正次原作「黒部の太陽」を映画化すると。
 「黒部の太陽」は、当時の国家的な大事業であった黒部峡谷のダム建設を扱った壮大なドラマ。映画化には莫大な費用が予想され、大手映画会社が組んでも手を出せないほどのスケールの大きな物語であった。裕次郎にとっては、勝負をかけての挑戦であった。
「やりますよ、俺は・・・。
 五社協定にかけられようが、映画界を追放されてもいい。
 俺はこの”黒部の太陽”だけはやって見せますよ」
      (末尾の参考文献1より引用)
と、裕次郎は語り、三船もまた、
「分かった。俺もやる。
 裕ちゃんにだけ迷惑はかけない!」
      (同)
と答えたという。こうして二人の共演が実現し、そして撮影が始まった。

あれは本物の事故

 「黒部の太陽」製作の最大のポイントは、関電トンネル掘削現場の再現であった。このため愛知県豊川市の熊谷組工場の敷地の中に、鉄骨を組んで200m以上の長さの地上トンネルが作られた。内部は実物大のトンネルで、岩石などは全て本物を黒部から運んだ。
 掘削中に大破砕帯に遭遇し、大出水が起きる。これを迫力ある映像で表現できるかが映画の成功を左右する。出水シーンのために、セットの切羽の外側に420トンの水を貯めた水槽を設置し、その水を切羽の壁の外側部分に流し込み、その水圧で一気に壁をぶち破ってセット内に水があふれるような仕掛けになっていた。
 撮影は真夏、内部は40度を超える猛暑の中で行われた。監督の声が響き、水槽の栓が抜かれ、壁の外に水が次第に貯まり始める。すぐにも水圧で壁が破れ、大出水が始まるはずであった。ところが、水圧が上がっても壁が破れず、水が来ない。まだ来ない。・・・静まりかえったそのとき、突然の「ドカンッ」という大音響とともに水が突出してきた。裕次郎も、三船も、周りの俳優も、思わず我を忘れて必死の形相で逃げ出した。
 後に映画が完成して、試写会に皇太子殿下が来られたとき、裕次郎に「あれは、どういうふうに撮影されたんですか」と質問をされた。裕次郎は、「あれは本物の事故を撮ったんです」と答えたという。
 大事故で、一瞬死者が出たのではないかと思わせたほどであったが、幸いにも多少のけががあった程度ですんだ。まさに奇跡、あの迫力ある出水シーンは、神が作ったのかもしれない。

素直に讃えあいたい

 こうして撮影は終わり、1968年2月、「黒部の太陽」は公開された。結果はもちろん大成功であった。
 裕次郎は語る。
「 五社の圧力と苦闘し、撮影では九死に一生を得た。
 そして興業も大成功を納めた。
 ・・・(中略)『黒部の太陽』を大成功させたことで、三船さんと僕は、
 ”五社体制”という映画界の古い体質を改革し、前途に明るい灯火を
 つけたという自負がある。そういう意味で共に苦労した甲斐があったと思う。
  もし”黒部”が成功していなかったら、今日の映画界はなかったかも
 しれない。三船さんと僕が映画界の将来を考え、強引に推し進めた勇気は、
 お互い、素直に讃えあいたいと思っている。」
       (末尾の参考文献1より引用)

 裕次郎の映画は、「黒部の太陽」、そしてその少し後に「栄光への5000キロ」(1969年)が続く。このころが石原裕次郎が最も光り輝いていた時期であった。それから後は、石原プロ製作の映画は大きな成功をおさめることはなかったし、それどころか日本映画自体が衰退の道を歩むことになる。
 そしてこのころ、ダムもまた光り輝いていたのかもしれない。

 
(参考文献)
 本稿を書くに当たり、次の文献を全面的に参考にしました。

1.石原裕次郎著、石原まき子監修「口伝 我が人生の辞」2003.7.17 株式会社主婦と生活社
2.川野泰彦「石原裕次郎 男の世界」1999.7.2 フットワーク出版株式会社

(映画「黒部の太陽」メモ)

製作:三船プロダクション・石原プロモーション
配給:日活
公開:1968.2.17

企画:中井景
監督:熊井啓
脚本:井手雅人、熊井啓
原作:木本正次
音楽:黛敏郎

主な出演:
   北川(黒四建設事務所次長)     三船敏郎
   岩岡(熊谷組岩岡班)        石原裕次郎
   太田垣(関西電力社長)       滝沢修
   芦原(関西電力常務取締役)     志村喬
   平田(関西電力黒四建設事務所長)  佐野周二
   源三(岩岡の父)          辰巳柳太郎
   森(佐藤工業社員)         宇野重吉
   賢一(佐藤工業社員・森の長男)   寺尾聡
   小田切(佐藤工業工事課長)     二谷英明
   黒崎(黒四建設事務所建設部部長)  芦田伸介
   加代(北川の妻)          高峰三枝子
   由紀(北川の長女)         樫山文枝
   牧子(北川の次女)         日色ともゑ
   きく(森の妻)           北林谷栄

(平成15年8月作成)


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