全項目表
 
ダム番号:692
 
小河内ダム [東京都](おごうち)



ダム写真

(撮影:池ちゃん)
046756 安部塁
046757 安部塁
022297 菊池政次
019787 Dam master
D-shot contest 入賞作品   →ダム便覧トップ写真   →フォト・アーカイブス [ 提供者順 / 登録日順 ]
どんなダム
 
完成までに長い道のり
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小河内ダムの築造計画は古く大正15年に遡り、当時の東京市会が将来の大東京実現を予想して水道事業上の百年の長計を樹てるべきだとしたことから、調査が開始され、昭和7年、東京市会で小河内ダム築造計画が決定された。その後、多摩川下流、神奈川県側の二ヶ領用水との間で水利権を巡る調整に時間がかかったこともあって、総合起工式が行われたのは昭和13年であった。用地買収が進んだが、戦争中に一時中断、昭和23年再開。工事は、昭和13年に付け替え道路工事が始まり、順次進み、しかしこれも戦争で18年に中断、23年に再開。28年に本体の定礎式があり、竣工式は32年11月。完成に長期を要したが、今都民の水瓶として大きな役割を果たし、大正にはじまる計画の先見性が賞賛される。
[写真](提供:カーヤ)
フーバーダムに学ぶ
___ 建設当時は日本には150m級のダムを完成させた経験がなく、設計施工に当たっては、アメリカのフーバーダム(当時はボルダーダムという名前だった)に学んだ。フーバーダムは昭和11年に完成、建設の報告書類は英語の原書しかなく、小河内ダムの建設に携わった技術者はその報告書を読んで議論したため、英語と日本語が混ざった議論をしていたという。
世界最大の水道専用ダムと称される
___ 堤高149m、貯水要領1億8900万トン。我が国屈指の大ダムで、世界最大の水道専用ダムといわれることが多い。しかし、水道のほか、発電にも利用されている。いずれにしても「都民の水ガメ」として大きな役割を果たしている。
工事で87名が殉職
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工事で87名の尊い命が失われた。1953年3月に慰霊碑の前で慰霊式が行われた。碑の裏側には、殉職者名が刻まれている。
[写真]慰霊式(提供:カーヤ)
移転総数945世帯
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建設のために移転を余儀なくされた世帯は総数945世帯に及び、その大多数は旧小河内村の村民だった。昭和13年、ようやく小河内村との補償の合意がなされたが、小河内村長小澤市平氏は、『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで、「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」と思いを述べている。
[写真]付替え道路工事中の頃の小河内村麦山(提供:カーヤ)
石川達三の小説「日陰の村」の舞台
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戦前、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々は、そこになかなか順応できず、戦後も窮乏や流転をくりかえした。1937年当時、作家石川達三はその様子を「日陰の村」という小説にえがいた。
東海林太郎が歌った「湖底の故郷」
___ 600世帯、3000人が故郷を離れたときの思い出を歌った曲。「夕日は赤し、身は悲し、涙は熱くほおぬらす、さらば湖底のわが村よ・・・」。昭和12年に発表され、全国的に愛唱されたという。昭和41年に奥多摩湖左岸の公園に歌碑が建てられた。
切手「小河内ダム完成」
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1957年11月26日、小河内ダムの完成を記念して切手が発行された。10円の記念切手。小河内ダムと奥多摩湖を見下ろした光景が描かれている。
湖畔に1万本の桜
___ 奥多摩湖の湖畔には、1万本の桜が植えられ、桜の名所。その他、四季折々に楽しめて、多くの観光客を集める。
ダム湖は「奥多摩湖」
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この地域は、明治の終わり頃から、多摩地方の奥に位置するので奥多摩と呼ばれるようになっていった。昭和30年、2町1村が合併して町ができたとき、奥多摩の名が付けられて奥多摩町となった。小河内ダムの貯水池は、昭和32年10月に、通称として奥多摩湖と命名され、現在この名が広く使われている。
[写真](撮影:カーヤ)
シリーズ ダム百選 投票から
第 5 回  『 放流のカッコいいダム 』
■ 小河内ダムは東京の水がめです、奥多摩湖から放流した風景はすごく良いと思います。 (11〜20歳 男)

第 13 回  『 デザインの良いダム 』
■ 堂々とした堤体に、シンメトリーに配された2本のタワーが美しい。そして、ゆったりと余裕のある天端や洪水吐。とても上品な空間はエレガントであるとさえ感じます。 (あつだむ宣言!)

第 16 回  『 家族で行きたいダム 』
■ 都内の自宅から、ドライブにちょうど良い距離。子供へ「自分たちの飲み水の源泉はここにあるんだ」という教育のためにも、ぜひ、家族で訪れたい。 (31〜40歳 男)

第 17 回  『 温泉が近くにあるダム 』
■ 温泉が近いと言うより、ずばり「ダム湖から湧き出している温泉」です。
ダム湖に水没した小河内村に、昔からあった湯治場だったそうです。
ダム建設の際、源泉の汲み上げポンプを設置したものの、その後活用されずにいたとのこと。
1991年にポンプを補修して、「幻の温泉」を復活させ、奥多摩湖周辺の旅館や民宿、食堂に、源泉をタンクローリーで運んでいます。
日帰り温泉も楽しめます。道路も整備されており、首都圏からの気軽なドライブにも最適です。[鶴の湯温泉] (Akiyama)


第 20 回  『 電車やバスで行けるダム 』
■ 青梅線奥多摩駅からバスに乗って行きました。奥多摩湖のバス停で降りれば目の前にダムがあります。隣の白丸駅から徒歩で10分位の場所に白丸ダムがありますが、横断歩道が見当たらなかったので道路を渡る際は気をつけた方がいいです。白丸ダムからは渓谷を抜けて鳩ノ巣駅まで歩いていけます。
かなり自然を感じるコースになっていて、私は冒険家にでもなった気分でした。転ばないように気を張り過ぎたせいか、運動不足のせいか、橋を渡るころには息が切れてしまいました。山道や岩場など思っているより険しいので、渓谷を抜けていくのであればしっかり歩ける靴と服で行ったほうがよさそうです。 (ハルオ)


第 25 回  『 クールなダム 』
■ 堤体に何もない、洪水吐すらないそのデザイン(非越流型重力式コンクリートダム)がクール。
私見ではあるが、「科学戦隊ダイナマン」の基地は、ここではないか、と。 (たろちゃん)


第 29 回  『 ドラマや映画の撮影につかわれたダム 』
■ 科学戦隊ダイナマンにおいて、ダイジュピターの基地のモデルになってます。
東京近郊のダムとしかわかりませんが、東京近郊でこの形といえば、小河内ダムしかないでしょう。 (たろちゃん)


第 36 回  『 ダムに興味の無い人をダム好きにするダム 』
■ 初めて見たダム。建設中に働いている人が死んだり、村が無くなったり悲しいことも多いけど、立派なダムだと思いました。 (池亀 昂平)
テーマページ 文献にみる補償の精神【4】 「帝都の御用水の爲め」(小河内ダム)
ダムの書誌あれこれ(88) 〜東京都のダム(小河内ダム)〜
ダムの書誌あれこれ(5) 〜小説を読む〔上〕〜
ダムの書誌あれこれ(1) 〜小 河 内 ダ ム〜
「理の塔、技の塔」 〜私説・戦後日本ダム建設の理論と実践〜 (6) アメリカに追いつけ、追い越せ!戦後のダム技術開発
第20回 「水とのふれあいフォトコンテスト」 受賞作品
文献にみる補償の精神【54】 「移転民には十分な補償をしたか」 (小河内ダム・東京都)
ダムの整備で大都市の渇水被害が軽減
ダム切手コレクション
このごろ ダムをうたう(6) -東京沙漠-
郵便消印に描かれたダム
多くの犠牲によってできたもの〜全日本中学生水の作文コンクール 優秀賞〜
東京都水道局のPR施設でスタンプラリー実施中
左岸所在 東京都西多摩郡奥多摩町  [Yahoo地図] [DamMaps] [お好みダムサーチ]
位置
北緯35度47分23秒,東経139度03分03秒   (→位置データの変遷
[近くのダム]  白丸調整池(7km)

河川 多摩川水系多摩川
目的/型式 WP/重力式コンクリート
堤高/堤頂長/堤体積 149m/353m/1676千m3
流域面積/湛水面積 262.9km2 ( 全て直接流域 ) /425ha
総貯水容量/有効貯水容量 189100千m3/185400千m3
ダム事業者 東京都
本体施工者 鹿島建設
着手/竣工 1936/1957
ダム湖名 奥多摩湖 (おくたまこ)
ランダム情報 【ダム湖百選】(財)ダム水源池環境整備センターのダム湖百選に選定される(H17.3.16公表)
【ダムの歌】「湖底の故郷」 作詞:島田磬也 作曲:鈴木武雄 歌:東海林太郎。 昭和12年6月発表。
【ダムカード配布情報】2021.8.1現在 (国交省資料を基本とし作成、情報が古いなどの場合がありますので、事前に現地管理所などに問い合わせるのが確実です) Ver2.1
○@小河内ダム展望塔 A奥多摩 水と緑のふれあい館 @10:00〜16:00(ただし、7/20から8/31は17:00まで。年末年始は休館のため配布していません。) A9:30〜17:00(水曜日(水曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始は配布していません。)
ダムカード画像コレクション
小河内ダム Ver.1.0 (2010.10)
[協力:ヒロC]
小河内ダム Ver.2.0 (2015.12)
[協力:ヒロC]
小河内ダム Ver.2.1 (2016.12)
小河内ダム [(60周年記念シール付き)] Ver.2.1 (2016.12)
[協力:richika]
小河内ダム60周年 (2017.11)
内部リンク ダム湖の旅・奥多摩湖(小河内ダム)
ダムギャラリー・第2展示室
リンク Dam master・小河内ダム
DAM Photographer・ダム湖の真ん中・・・
DAM Photographer・奥多摩・・・
DAM-goodfellows・小河内ダム
DamJapan・小河内ダム
DamJapan・小河内ダム
Dam's room・小河内ダム
damsite・ダムデータ
Damstyle・小河内ダム
NAUTIS’s Site・小河内ダム
THE SIDE WAY・小河内ダム
ウィキペディア・奥多摩湖
おぼえがき・小河内(おごうち)ダム
ダムどら・小河内ダム
ダムペディア・0692-小河内ダム/おごうちだむ
ダムマニア・小河内ダム
ダム好きさん【小河内ダム】
ダム便覧保存館・水がめ便り・小河内ダム
ダム浪漫−小河内ダム
関東ダム31か所巡り
関東の堰提
今日の貯水量(東京都水道局)
週末はダムに居るかもね♪・小河内ダム
小河内ダム
小河内ダム(社団法人日本土木工業協会)
水力ドットコム・多摩川第一発電所
雀の社会科見学帖・小河内ダム見学 その1
切手「小河内ダム完成」
多摩川水系のダム(小河内ダム)(三鷹市教育センター)
日本の川と災害・小河内ダム
日本全国ダム紀行・小河内ダム
参考資料
■ダムの書誌あれこれ(1)『小河内ダム』/古賀邦雄
【ダム日本 No.709(H15.11)】
関連書籍 ■奥多摩湖愛護会 『湖底の村の記録』 奥多摩湖愛護会 1982
■東京都水道局 『小河内ダム (写真集)』 東京都水道局 1957
■奥多摩湖愛護会 『湖底の故郷 小河内ダム竣工30周年記念』 奥多摩湖愛護会 1988
■東京都水道局 『小河内ダム (図集付)』 東京都水道局 1960
■東京市役所 『小河内貯水池郷土小誌』 東京市役所 1938
■小河内村役場 『小河内村報告書』 小河内村役場 1938
■岩崎正吾 『清里開拓物語 小河内ダム水没者の記録』 山梨ふるさと文庫 1989
■平林久樹 『湖底の村の人たちとともに 小河内貯水池に係わる水道用地マンの心意気』 平林久樹 1989
■石川達三 『日蔭の村』 新潮社 1948
諸元等データの変遷 【06最終→07当初】河川名[多摩川→水無川]
【07当初→07最終】河川名[水無川→多摩川]

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文献にみる補償の精神【4】
「帝都の御用水の爲め」(小河内ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 日本の近代水道布設の目的の一つは、コレラ菌など伝染病の感染を防ぐことであった。明治10年9月長崎に来航したイギリスの商船からコレラ患者が発生、折からの西南の役後の帰還兵から瞬く間に全国に蔓延した。コレラ患者数13,710人、そのうち7969人が死亡した。さらに、明治12年愛媛から発生したコレラ患者数 162,637人、そのうち 105,786人が死亡している。

 明治10年〜明治20年の水系伝染病発生の合計患者数 821,320人(死亡者 372,262人)で、その内訳はコレラ患者数 412,577人(死亡者 273,816人)、赤痢患者数 157,876人(死亡者39,096人)、腸チフス患者数 250,867人(死亡者59,350人)と悲惨な事態を引きおこした。明治10年の日本の人口は3587万人に対し、罹患率は非常に高い。のちに判明するが、その原因は汚染された飲み水による水系消化器系伝染病であった。ドイツ人コッホによるコレラ菌の発見は明治16(1883)年のことである。

 このような伝染病に対処するために清浄な水道水が必要であった。日本初の近代化水道の布設は明治20年横浜(計画給水人口7万人)においてイギリス人工兵少将ヘンリー・スペンサー・パーマーの計画、設計、監督によって、水源相模川(取水口津久井町)から野毛山貯水池(横浜市)まで約43キロが施行された。

 皮肉なことであるが、伝染病を防ぐ近代水道布設に尽力したパーマーさえも、明治26年腸チフスにかかり、リューマチを併発、脳卒中をおこし、54歳で東京麻布で逝去した。昭和62年パーマーの胸像が野毛山貯水池の公園内に建立されたが、この建立は、パーマーによる横浜に完成した日本最初の近代水道の百周年を記念したものである。

 以上、日本の近代化水道の創設については、斉藤博康著『水道事業の民営化・公民連携−その歴史と21世紀の潮流』(日本水道新聞社・平成15年)と、樋口次郎著『祖父パーマー・横浜近代水道の創設者』(有隣堂・平成10年)を参考とした。

 コレラの大流行を契機として、東京の近代化水道布設は明治21年に調査、設計が開始され、明治31年玉川上水路を利用し多摩川の水を淀橋浄水場(昭和40年廃止、現東京都庁舎を含む新宿副都心)に導き、沈殿、ろ過を行って有圧鉄管において給水を始めた。第一次水道拡張事業として、大正2年に村山貯水池、境浄水場の建設に着工、大正13年完成。大正15年金町浄水場、昭和9年山口貯水池がそれぞれ完成した。

 第二次水道拡張事業として、東京市水道局は、人口 600万人の水道用水を確保するため、昭和6年多摩川上流(東京市西多摩郡小河内村、山梨県北都留郡丹波山村、同小菅村)地点に小河内ダム建設の計画を発表した。

 ところが、昭和7年多摩川下流の神奈川県稲毛・川崎2ケ領用水組合との間で農業用水における利水上の紛争が生じ、解決に昭和11年まで要し、その約4ケ年の間、水没村民は塗炭の苦しみを味わった。ある水没村民は家業に手がつかず不安な日々を過ごし、また移転先を物色し、手付金を払ったのに補償金が出ず、手付金が無駄になった者もいた。さらに補償金を目当てに借金したためその利子の支払いで苦しい生活を強いられた者もいた。家屋や土地を抵当に入れて借金している者も多く、悪質な金融ブローカーが横行していた。これらの苦境を打開するために水没村民たちは、多摩川を下り、東京市庁へ陳情を行うが途中で警察官に阻止されている。この悲惨な状況下でも、日中戦争さなか村民の若者たちが出征していった。

 昭和13年漸く小河内村の補償の合意がなされた。この合意に関し、小河内村役場編・発行『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで、小河内村長小澤市平の苦渋のにじみ出た「補償の精神」を読みとることができる。

「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである。
 我々の考え方が單に土地や家屋の賣買にあつたのでは、先祖に對して申譯が無い。帝都の御用水の爲めの池となることは、村民千載一遇の機會として、犠牲奉公の實を全ふするにあつたのである。
 村民が物の賣買觀にのみ終始するものであつたなら、それは先祖への反逆でありかくては、村民は犬死となるものである。(中略)
 顧りみれば、若し、日支事變の問題が起らぬのであつたならば、我等と市との紛爭は容易に解決の機運に逹しなかつたらうと思ふ。
 昭和十二年春、東京市が始めて發表した本村の、土地家屋買収價格其の他の問題は、我々日本國民として信ずる一村犠牲の精神と價値と隔たること頗る遠く、到底承服し得られぬ數字であつた。
 本村は、粥を啜つても餓死しても水根澤の死線を守つて、權利の爲めに抗爭し、第二の苦難を敢てしやうとした村民であつたが國内摩擦相剋を避けんとする國民總動員運動の折柄に、我等は此の衝突こそ事變下に許すべからずとして、急轉して解決の方針に向つたのである。是れこそ對市問題解決の動機である。今日圓滿な解決を來し當局と提携事業の進行を見るのは同慶の至りである。」

 水没村民の子供たちもまた、故郷を去らねばならない。その心情を本澤貞子(西高二女)の作文をこの書から引用する。

「春の山吹やつゝじ、夏の山百合や秋のもみじ、又幾千年の昔から行はれた車人形、獅子舞など私達にとつて最も樂しく、何時迄も何時迄も心に殘り、夢となる事でせう。もう留浦で多くの人々は家をこはした樣です。農夫の働く有樣を見ても後幾年も居られないのだ、留浦の方では豊岡へ八王子へと行つてしまふのになどと思ひ心細くて耕すのもいやだと言ふ樣な風も見えます。(中略)
 東京市民六百萬の爲だと考へますれば、しかたがありません。私達は喜んで懐しい村を後に致しませうさあ皆さん、一緒に今迄御恩になつた小河内へさよならを云ひませう「小河内よさよなら」小河内の諸神樣よ新しき村に行つてから後も、何時迄も何時迄も私達小河内村民をお守りなさつて下さい。そして立派な國民となれます樣に。・・・・・」

 このように村長は「帝都の御用水の爲め・・・犠牲奉公の實を全ふする」と、また子供も「東京市民六百萬の爲だと考へますれば、しかたがありません」と言明している。戦争という社会背景で、時代の流れがそのまま「補償の精神」を貫いている。

 昭和10年にかけて、小河内ダムの問題は、センセーショナルな事件としてマスコミにたびたび取りあげられ、徳富猪一郎、鳩山一郎、大野伴睦等多くの有識者から水没村民への援助と同情が寄せられた。石川達三の『日蔭の村』(新潮社・昭和12年)は、これらの村民、村長、水道関係者の動向を描いた小説である。東海林太郎は「夕陽は赤し、身は悲し、涙は熱久頬を濡らす、左らば湖底のわ可村よ、幼き夢能ゆりかご与」と歌った「湖底の故郷」はなおさら村民の悲哀をかき立てた。物事には必ず光と影が伴う。多摩川上流の水によって益々東京は発展していく。多摩川上流域の村々はその発展の犠牲となる。即ち「日蔭の村」となることを表現している。以後ダム問題は都市と農山村の相剋として如実に現れてくる。


『日蔭の村』


 昭和13年11月小河内ダムは着工したが、折からの日中戦争、太平洋戦争の進展に伴い、資材の不足のため昭和18年10月にやむなく工事を一時中断した。その時の状況は、取得面積1023haのうち 718ha、家屋移転 480戸(戦後に 465戸移転される)が進捗していたが、さらなる未補償の村民らの苦しみが続いた。また工事ではダム基礎掘削76%、コンクリート施工設備90%、仮排水路 100%、道路49%、仮建物 100%と、完了し、すでにダムコンクリート打設ができるようになっていた。
 昭和20年8月戦争が終結した。昭和23年4月都議会の議決を経てダム工事が再開、昭和24年「物件移転料その他補償基準」の覚書締結、昭和28年補償料の値上げが「補償基準の運用方針」により増額、同年ダム定礎式、昭和32年11月に小河内ダムは完成した。この時東京都の人口は 740万人に激増している。
 ダムの諸元は堤高 149m、堤頂長 353m、総貯水容量1億8540万・、非越流型直線重力式コンクリートダムで、施工者は鹿島建設(株)である。小河内ダムは昭和7年の計画発表から戦争を挟んで25年、総事業費約 150億7千万円を要した。ダムに従事した職員の中に看護婦3名が含まれているが、おそらく工事における病気や外傷の手当てに務められていたのであろう。残念なことに、不測の事故で87名の方々が殉職された。

  945戸の世帯は、東京都では奥多摩町、青梅市、福生市、昭島市、八王子市、さらに埼玉県豊岡町、山梨県八ケ岳等にそれぞれ移転している。この移転については水没村民の方々の苦労は大変なことであったと推測される。それ故に水没村民の方々の恩を忘れることはできない。

 戦前戦後を通じて、小河内貯水池建設事務所の組織では、用地課はなく庶務課に用地係が所属していた。補償交渉にあたっては、まだ統一的な補償基準が制定されておらず、生活再建対策も不十分で、勿論水源地域対策の発想もないころである。仮住居費、移転先詮索費、木炭生産者休業補償、残地補償、天恵物補償は補償対象となっていないが、感謝料と生活更生資金が支給されている。様々な困難を乗り越えて解決された歴代の用地担当者の使命感と責任感には頭がさがる。

 小河内ダムの補償は、戦前「帝都の御用水の爲め」という滅私奉公の「補償の精神」であったものの、昭和23年補償交渉が再開された時は、世の中は民主主義という日本人の価値観が 180度変化していく。
 このようなことを考えてみると、小河内ダムの建設は、あまりにも複雑な事情が重なり、社会的変動、経済的変動に伴い、時代の流れに翻弄された混乱期のダム補償であったといえる。

   水涸れせる小河内のダムの水底に
              ひとむら挙げて沈みしものを
                        (昭和天皇)

(2006年2月作成)


→ ダム便覧の説明
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