『満濃池』
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この満濃池の歴史を振りかえると、前述のように貯水量を増加させるために3回も嵩上げ工事が行われている。昭和16年第3次嵩上げ工事は着手されたものの太平洋戦争で中断、20年の歳月を要し、昭和36年に竣工した。この嵩上げ工事によって五毛地区の集落28戸が水没している。
僧空海は弘仁12年約2ケ月で満濃池を再築した。この再築について、大林組プロジェクトチ−ムが想定復元を図った。その書、大林組広報室編・発行『満濃池』(平成7年)は大変興味深い。 このプロジェクトチ−ムは、西嶋八兵衛が空海の築造を下敷きにして再築を図ったと言われており、それを推定しながら、明治3年の長谷川佐太郎の築造図と、さらに第3次嵩上げの図から空海の再築工法を想定した。このことから空海の工法について、満濃池の諸元を堤体天端標高 139.0m、天端幅10.9m、堤底幅 118.2m、貯水量 500万m3(現在の3分の1)と設定し、またその築造工程表も掲げ、総盛立土量9万4,000m3などに総人数数 38万3,000人を要したと推定した。
古代の讃岐の推定人口は20万人程度といわれ、延人数38万人を要する満濃池の再築は讃岐地域だけでなく、他国からの多くの宗教関係者も自ずから馳せ参じたのであろう。僧空海の偉大さとそれに参加した人たちの意気ごみが1200年前の国土造りへのロマンを感じさせてくれる。その後、先人たちの尽力によって、今日の満濃池は築造された。「ロ−マは一日にして成らず」というが、同様に「満濃池も一日にして成らず」と言えるであろう。 毎年6月13日の「満濃池の初ゆる抜き」には、堰堤とその周辺には沢山の見物人、それに屋台店で賑わい、讃岐地方の農村風物誌として定着し、日本の水文化を形成している。
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