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4.仙人谷ダムの建設

 昭和15年仙人谷ダムが竣工し、黒三発電所が運転を開始した。この時代の背景をみてみると、まさしく戦争の時代であった。昭和11年2・26事件がおこり、12年日中戦争が始まった。そして13年電力国家管理法が制定され、14年電力国家管理法に基づき日本発送電(株)が設立され、電力が国家の管理のもとにおかれるようになった。

 このような電力国家管理について、橘川武郎東大教授は、その著『松永安左エ門 生きているうち鬼といわれても』(ミネルヴァ書房・平成16年)で、その非合理を次のように指摘する。

・電力国家管理法が電力業経営者の創意工夫や民間電力会社の活力を封殺した。
・電力国家管理下で採用された、水力中心の発送電事業の全国の一元化というシステムが電気供給の安定性や発電コストの面で問題を残した。
・電力国家管理が発送電事業と配電事業を徹底的に分離した。

 さらに、ストックすることができない電気という特殊な商品を取り扱う電力業において、電源と市場の有機的結合が電気供給の安定性を確保するうえでも、発電コストを削減するうえでも重要であったからだ。このような非合理性をもった、電力国家管理が実行されたのは、戦争遂行による国家主義的なイデオロギーの台頭によるものであると論じる。

 仙人谷ダムは5年(昭和11年〜15年) を要し完成した。このダムの諸元は、堤高43.5m、堤頂長77.3m、堤体積 3.7万m3、総貯水容量68.2万m3、型式重力式コンクリートダムで、目的は黒三発電所において最大出力81,000KWの発電を行う。企業者は日本電力(株)→日本発送電(株)で、施工者は佐藤工業(株)である。

 仙人谷ダムをつくるには、さらに専用敷道を欅平から6km先の仙人谷ダム地点まで延長する必要があった。そのために欅平の山の中に 200mの堅穴を堀り、トロッコの乗るエレベーターをつくり、資材運搬ルートをつなぎ、堅穴で一気に 200m上昇、その上部地点から仙人谷ダムサイトまで上部軌道を結ぶ。いくつかの横坑は 160mのうち60m掘り進んだところで摂氏75度、さらに85度まであがった。黒部川の冷水を汲みあげ、それを切羽で作業中の人夫にホースで身体を冷やしてやる。ついに使用制限温度の3倍 120度まであがった。そこでダイナマイトを断熱材(エボナイト)の円筒にくるんで装填することで行われた。不可能を可能へと導いた。高熱隧道作業は1日1時間とりわけ切羽20分で交替、1日3回まで行われ、破格の賃金であった。人夫たちは熱射病、胃腸病の障害で悩まされ、カルシゥム注射、栄養補給には、その当時では貴重な鶏卵、牛乳が摂られたという。

 この高熱トンネル工事を小説化にした吉村昭の『高熱隧道』(新潮文庫・昭和50年)は、多くの読者をひきつける。さらに、高熱隧道に携わった朝鮮人の足跡を探究し、このとき雪崩事故に遇った朝鮮人遺族を尋ねて著した、内田すえの、此川純子、堀江節子著『黒部・底方の声−黒三ダムと朝鮮人』(桂書房・平成4年)の書がある。この書の内容は、当時の富山の新聞を隅々まで渉猟し、一章 黒部川第三発電所の建設(此川純子)、二章 朝鮮人遺族たちの半世紀−黒三志合谷雪崩事故(堀江節子)、三章 富山県における朝鮮人労働者−「強制連行」前史(内田すえの)の構成となっている。


『黒部・底方の声−黒三ダムと朝鮮人』
 この工事では事故や雪崩によって 300名以上犠牲者が出た。とくに昭和13年12月27日は午前2時志合谷ホウ雪崩は、志合谷宿舎を襲った。強烈な爆発音とともに宿舎の三、四階が人間もろともに消し飛んだ。84人が亡くなったが朝鮮人労働者も犠牲となっている。
 なお、工事は進められ、昭和14年8月困難を極めた高熱地帯のトンネルが貫通、15年11月仙人谷ダムは完成した。

 前掲書『黒部川』には、「人間は、そのとき現在の進行した(と信じられる)科学の水準を頼り、その限界の、ギリギリまであえて不可能に挑もうとする。人間とはある意味で、そのように悲しい性の持主である。」と述べている。このような科学の限界ギリギリをあえて不可能に挑んだ技術者たちの「志」が、戦後における黒四ダムの建設にもつながっているように思われる。
 現在の黒三発電所は昭和48年に無人化され関西電力(株)新愛本制御所(宇奈月町)からの遠距離操作されている。


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