『黒部ダム物語』
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次に児童書、前川康男著『黒部ダム物語』(あかね書房・昭和51年)は、黒四ダム建設における3つの危機を捉えている。
・昭和32年5月1日資材を運ぶ黒四ダムの生命線となる大町(関電)トンネル工事において、破砕帯(84m)にぶつかったことである。この破砕帯については、後述する映画『黒部の太陽』のクライマックスシーンとなった。33年12月土木技術者たちの英知と勇気が結集した結果、破砕帯は突破することができた。 ・昭和34年7月11日台風7号が襲い、ダム地点を押し流し、宿舎を破壊した。技術者たちは、重機械を高所に避難させることに忙殺され、衣類、財布、カメラを失くしてしまった。さらにダム地点は上流からの土砂で埋まった。しかし、この災害にくじけることなく、ダム建設にとりかかり、9月18日渓谷に「祝世界大アーチダム定礎式」ののぼりを掲げた。 ・昭和34年9月ダムコンクリート打設開始後、12月2日、南フランスのマルパッセ・アーチダムが大洪水で崩壊し、死者行方不明者 500人に及んだ。黒四ダムの設計はイタリアのアーチダムの権威者セメンツ博士と関電(株)との共同で行われていたが、資金の提供者世界銀行は黒四ダムの現場に調査団を派遣し、ダムの高さを下げることを勧告した。このため、岩盤が予想外に悪かったこともあって、アーチの両端にウィングダムをつけることになる。このときセメンツ博士は黒四ダム設計変更に尽力されたが、完成を待たずに36年10月に死去した。黒四ダムの両サイドにウィングダムを施工したことにより、黒四ダムは鳥が翼を広げたような形をとり、用・強・美を誇るダムとなった。
このような幾多の危機を乗り越え、黒四ダムは昭和35年10月1日湛水式を行い、昭和38年6月5日竣工式が現地で盛大に挙行された。完成までに 513億円と延べ1000万人という労働力を投入し、約7ケ年の年月を費やして遂に竣工した。
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『ダムをつくる−黒四・佐久間・御母衣・丸山』
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大沢伸生、伊東孝著『ダムをつくる−黒四・佐久間・御母衣・丸山』(日本経済評論社・平成3年)によると、黒四ダム建設の意義(「アルプスにかけたアーチ黒四ダム」 (大沢伸生執筆) )について3点論じている。
・黒四工事は、ダム竣工の翌年開催されたオリンピックや新幹線などとともにわが国発展の先駆をなすシンボルであった。 ・土木工事史的に、大型化重機類を完全に使いこなし本格的な重機化工法を定着させた。このことは国産の重機製造のよび水となり、技術レベルを一気に引き上げた。 ・ダムおよび取水口など一部を除き、発電所や導水路等全部の施設が地下化した。こうしなければ自然公園法の建設許可が得られなかったとはいえ、黒部の景観保全につながった。
このように施設を地下化することは、雪崩の害から守ることも一要因であったが、その後の立山黒部アルペンルートの開発を振り返ると、この景観保全の思想は踏襲され、技術者たちの様々な施工工夫によって、大自然美が守られてきたことは確かだ。
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◇大町(関電)トンネル−「黒部の太陽」
黒四ダム建設の生命線といわれた大町(関電)トンネルが破砕帯にぶつかり、技術者たちは、この突破のために悪戦苦闘が続く。芳賀公介(黒部川第四発電所)次長の「破砕帯メモ」によると、「昭和32年5月1日三工区より電話あり、二号トンネル切羽崩壊の心配あり、人夫退避とのこと(略)水抜き杭2条屈進、切羽地区コンクリート巻立て、切羽の補強をとりあえず施行する」(『クロヨン』)とある。
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『黒部の太陽』
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この関電トンネル難工事を小説化したのが木本正次の『黒部の太陽』(講談社・昭和42年、信濃毎日新聞社 (文庫版) ・平成4年)である。さらに、この小説をもとに、昭和43年熊井啓監督による同名『黒部の太陽』(三船プロ・石原プロ=日活)が映画化され、三船敏郎が芳賀公介次長を、石原裕次郎は熊谷組笹島班の岩岡技師の役を演じた。
この映画化にあたっては、「五社(松竹・東宝・大映・東映・日活)協定」の厚い壁が立ちはだかった。まるで関電トンネルの破砕帯にぶつかったようで、完成まで苦難の道をたどる。ミフネは東宝の、裕次郎は日活の専属契約者で、他社の映画には出演が認められない。東宝、日活双方から、ミフネ、裕次郎、熊井啓に対し、圧力がかかった。だが、ミフネ、裕次郎はともに、「何がなんでもつくろう」、「われわれの力で不可能を可能にしてみよう」と決意した。その映画人の執念の強さは印象的である。この破砕帯ともいえる「五社協定」の壁を乗り越え、昭和42年6月28日「黒部の太陽制作記念パーティ」のとき、ミフネ47歳、裕次郎32歳、熊井啓36歳、プロデュサー中井景43歳であった。
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『黒部の太陽−ミフネと裕次郎』
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この映画「黒部の太陽」の誕生については、熊井啓著『黒部の太陽−ミフネと裕次郎』(新潮社・平成17年)が最近出版され、秘蔵写真、シナリオも収録されている。
関電トンネルにおける破砕帯の大出水シーンは、愛知県豊川市熊谷組工場内に「関電トンネル」撮影用セットで行われた。この大出水は生死を分かつシーンで、このとき裕次郎は気を失っている。
「この出水シーンの撮影事故で気を失い、何分何秒かはわからないけど、その間確実に僕は死んでいた……ケガが一番ひどかったのは僕だった。キャプタイヤという撮影用コードが僕の身体に蛇みたいに絡まっていた。絡まった瞬間気絶してて水も大部飲んでしまった。病院に担ぎ込まれてストレッチャーの手術台に乗せられたとき、「先生、煙草を吸わせてくれ」と言って砂利だらけの軍手をとり、煙草を指で挟んで吸おうとしたら右手の親指がなかった。後側に折れ曲がっていたんだ。トンネルで流されながらレールの枕木につかまろうとして押し流され失神した。親指はたぶんそのときに折れたんだろうね」(「口伝わが人生の辞」 (主婦と生活社) )
このようなシーンは、過酷なトンネル内の労働を再現させ、恐怖を感じる。 「黒部の太陽」は観客動員 733万人、大ヒットとなった。三船敏郎は「求めて苦労しようとは思わぬ。しかし、人間は求めてでも苦労しなければならないときもある。この映画をプロデュースするに際して、私はそのような厳しさをひしひしと味わった」さらに「日本人のタマシイ−勤勉、勇気、根性、人間愛といった日本人の素晴らしさを描きたかった」と語っている。
前述してきたように、昭和38年6月土木技術者たちの熱意と勇気と英知で黒四ダムが完成した。この壮大なダム建設に感銘をうけ、新たに「土木工学」を学ぶ道を選んだ若い人たちが多数輩出したという。
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