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大水害と河川総合開発計画

 太平洋戦争という巨大な総力戦は、最悪の消耗戦となり日本を破滅のどん底に突き進ませた。戦時体制下、政府は国直轄の河水統制事業を推進し、北上川上流、名取川、那珂川、猪名川(いなかわ)、由良川など主要河川で洪水調節を目指した河水統制調整池(ダム湖)の建造を計画し一部で事業が開始された。しかし戦局が敗北に傾く中、すべての事業が中断・中止された。一連のダム建設計画は戦後復興の大きな足がかりとなる。

 昭和20年(1945)8月15日、戦争は昭和天皇の玉音放送によって終わりを告げた。戦災による犠牲者は約185万人にも上った。日本領土は戦前の40%を失い、被害は国富(国力)の4分の1に達した。同年8月30日、連合国軍総司令官マッカーサー元帥は厚木飛行場に降り立った。オールマイティの元帥による米軍占領・日本統治の始まりである。

 敗戦国はかつてない「飢餓列島」となり、政府は内閣に戦災復興院(後に建設院を経て建設省)を設けた。GHQ(連合国軍総司令部)指令により23年内務省が解体された。差別的処遇に甘んじてきた技術官僚は解体に不満を示さなかった。それに先立ち、経済安定本部が21年に設置され平和国家の構築を目指した。窮乏にあえぐ列島に追い打ちをかけるように超大型台風が相次いで襲った。敗戦の痛手から立ち上ろうとした国民は再度打ちのめされた。

 昭和22年秋カスリーン台風が利根川の堤防を切って東京下町を水没させた。「100年に1度」の大水害だった。翌年にアイオン台風が、その後キティ台風・ジェーン台風など英語女性名の大型台風が毎年襲来し大水害の巨大な爪あとを残した。待ったなしの治水策として大河川でのダム建設が急がれた。(注:『水力技術百年史』と「ダムの役割」(ダムの役割調査分科会・平成十七年三月刊)を参考にし、一部引用する)。利根川流域でのダム建設計画は群馬県内の支川ばかりで、本川は今日までダムサイトにはなっていない。

 洪水調節による治山治水対策、流域の農業用水と工業用水の確保、森林開発など総合効果を目指した多目的ダム建設が求められ、これに呼応した貯水池式発電所建設が進められることになった。多目的ダム建設と流域の総合開発計画が、アメリカ・TVA計画をモデルとしていることは言うまでもない。(昭和23年設置の建設省河川局と経済安定本部は治山治水のあり方をめぐって対立することが少なくなかった)。25年新宮川・猿谷(さるだに)ダム(国土交通省)が工事着手され、戦後中断されていた北上川・田瀬ダム(国土交通省)、鬼怒川・五十里ダム(国土交通省)でも大規模工事が再開された。資金不足の時代ではあったが、戦後復興のシンボルといえるダムの大半が戦前の河水統制事業を引き継いだものであった。山間地の渓谷にダム建設の槌音(つちおと)が高らかに響いた。

 同年国土保全、食糧増産、水力発電を目的とする国土総合開発法が施行された。これにより「北上川特定地域総合開発計画」(TVAを真似て「KVA」と呼ばれた)、「天竜東三河特定地域総合開発計画」、「木曽川特定地域総合開発計画」が立案された。国家の窮乏を救う大河川開発の時代に入った。翌26年河水統制事業は「河川総合開発事業」と改称された。政府は、治水・利水事業を総合的計画の基に行うことを目指したのである。

 ダムや遊水地による洪水調節、河川流量の確保(以上治水対策)、水力発電・農業用水・都市用水などの水資源確保(以上利水対策)の総合計画である。水没者対策や用地収用にあたって、行政や電力会社に強引とも思われる手法がとられたことは否定できない。犠牲を強いられる地元自治体や住民に対する法律上の救済が急がれた。「上流・下流問題」も台頭した。

 群馬県山岳部の藤原ダム(26年着工、国土交通省)は法律に規定のない「不特定かんがい容量」を設定していた。これが後に「不特定容量」と名称を変え「流水の正常な機能の維持」との概念に位置付けられた。昭和32年(1957)特定多目的ダム法が制定された。国直轄多目的ダムについては、建設大臣(当時)自らが施行し完成後も河川工作物として国が維持管理の責任を負うことになった。多目的ダム時代の到来である。



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