4.泰阜ダムの建設
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天竜川における最初の発電は、明治32年飯田電灯・による松川第1 発電所の操業に始まる。その後大正4年新規8社が、発電水利計画の出願書を提出したが、大正14年「伊那谷の水系を総合的に使用して、安定的な電力を供給するために」ということで、天竜川電力・(福沢桃介社長)の一社に統合された。昭和2年大久保発電所(大久保ダム)、昭和4年南方発電所(吉瀬ダム)が竣工し、発電が始まった。現在、この発電所は中部電力(株)が管理し、同波数を東日本のアメリカ系50ヘルツと西日本のヨーロッパ系60ヘルツに変換して、関東、中部方面に送電している。
ダム造りに欠かせないのは、ダム資材を運ぶための鉄道、道路の輸送システムの拡充である。発電水利権を許可するにあたっては、信州から三河までの間の軌道を敷設する付帯命令が出されたという。昭和7年鉄道は辰野〜門島間が開通。と同時に、矢作水力(株)(昭和4年天竜川電力(株)から社名変更)によって泰阜ダムの建設が着手し、昭和10年長野県下伊那郡泰阜村に完成した。
このダムの諸元は、堤高50m、堤頂長 143m、堤体積12.8万m3、総貯水容量1076.1万m3、最大出力 52500KW、最大使用水量178.09m3/s、有効落差36.8m、型式は重力式コンクリートダムで、施工者は清水建設(株)である。
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『泰阜ダム関係経過調書』 |
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当時、泰阜ダムは中部地方では、最大規模の水力発電用ダムを誇っていた。その反面、前述したようにこのダムは、土砂による河床堆積とダムの堰上げに伴う水害が頻繁に起こり、地元民からダム撤去の要求がなされている。これらの経過については、長野県土木部編・発行『泰阜ダム関係経過調書』(昭和42年)、前掲書『天龍川川路水防史続編』(平成15年)にまとめられている。 なお、平成5年泰阜ダムの堆砂率は80.4%に達し、泰阜ダムは洪水時にゲートを全開して洪水を通過させる調整池として運用されている。(前掲書『天竜川とともに』)
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