平岡ダム
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昭和12年日中戦争が勃発し、水力電力のエネルギーは重要度を増してきた。昭和13年電力管理法が制定され、翌年国策会社日本発送電(株)が設立され、電力は国家の管理下におかれた。15年建設中の平岡ダムは矢作水力(株)から日本発送電(株)に継承され、国策工事として位置づけられた。このダム工事は、ほとんどが人力で行われ、16年朝鮮人労働者約2000人、17年米国人捕虜73人、19年中国労働者 884人が従事したが、これらの多くの外国人労働者は、強制労働による栄養失調と病気で亡くなった。20年5月資材不足のため56%の完成をみながら建設は中止となった。24年6月ダム建設は再開、25年2月熊谷組(株)と諸負契約がなされ、工事は進んだ。26年日本発送電(株)が解散となり、新たに中部電力(株)が引き継ぎ、この間ダム補償交渉は難航していたものの、長野県等の斡旋により、湛水直前26年9月に解決した。
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