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5.平岡ダムの建設


平岡ダム

 昭和12年日中戦争が勃発し、水力電力のエネルギーは重要度を増してきた。昭和13年電力管理法が制定され、翌年国策会社日本発送電(株)が設立され、電力は国家の管理下におかれた。15年建設中の平岡ダムは矢作水力(株)から日本発送電(株)に継承され、国策工事として位置づけられた。このダム工事は、ほとんどが人力で行われ、16年朝鮮人労働者約2000人、17年米国人捕虜73人、19年中国労働者 884人が従事したが、これらの多くの外国人労働者は、強制労働による栄養失調と病気で亡くなった。20年5月資材不足のため56%の完成をみながら建設は中止となった。24年6月ダム建設は再開、25年2月熊谷組(株)と諸負契約がなされ、工事は進んだ。26年日本発送電(株)が解散となり、新たに中部電力(株)が引き継ぎ、この間ダム補償交渉は難航していたものの、長野県等の斡旋により、湛水直前26年9月に解決した。


『平岡ダム交渉史』

 平岡ダム対策委員会編・発行『平岡ダム交渉史』(昭和28年)によると、長野県下伊那郡下の大下条村、泰阜村、宮草村、和田組合村における田畑38町、山林 176町、住家47戸が湖底に沈んだ。地権者たちにとって、戦前、戦後を通じ、矢作水力(株)→日本発送電(株)→中部電力(株)と次々に起業者が変わり、戦争と戦後復興という時代の流れに翻弄されたダム造りとなった。

   平岡ダム湛水始めぢりぢりと畑も屋敷も今沈み行く
                          (金田千晴)

 当時、名古屋地方はたびたび停電がおこり電力不足が続き、そのため一刻も早いダム建設が望まれていた。26年12月平岡ダムは発電を開始、翌年3月長野県下伊那郡天龍村大字長島に竣工した。その後、51年4号機が増設されている。

 このダムの諸元は堤高62.5m、堤頂長 258m、堤堆積25.2万m3、総貯水容量4242.5万m3、最大出力10万1000KW、最大使用水量 256m3/s、有効落差 47.43m、型式重力式コンクリートダムである。平岡ダムで貯水した水は、右岸取水口で取り込み、圧力トンネル(延長 714m)を経て水車を回し、水車に直結された発電機は電気をおこし、変圧器で電圧をあげて、昭和27年竣工以来飯田、名古屋方面へ送電を続けている。水車を回した水は再び放水路へ放流され天竜川に戻るが、ダム直下と放水路口まで減水区間が生じている。

 昭和39年4月20日、平岡ダムの建設現場で働いて犠牲者となった中国人の慰霊碑「在日殉難中国烈士永垂不朽」がダムサイトの傍らに建立された。その碑に「願わくは、異境に眠る隣邦の霊魂、とこしえに朽ちざらんことをお祈りすると共に、私達は日中両国が再び悲惨な戦を起こすことなく、永遠に両国民の友好を誓うものである」と刻まれている。(『友好の架け橋』 (飯田日中友好協会・平成15年) )

 なお、中部電力(株)は、天竜川中流部において、黒川、駒場、阿知川ダムなど34ダム(堤高15m以下を含む)と昼神、米川、北又渡発電所など14発電所によって、最大出力24万5960KWの発電を行っている。

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