世界を駆け巡ったダム崩壊の一報
|
大惨事は、昭和51年(1976)6月5月真昼アメリカ西部・アイダホ州の田園地帯で突発した。 「ダム崩壊のニュース一報を聞いたとき心臓が凍りつくようなショックに襲われた」、「ダムの所在地や崩壊後の状況もまったく分らず情報収集もままならないままあたふたするだけだった」、「頭の中が真っ白になった。これで日本のダム建設も10年は遅れるだろうと覚悟した」
当時を思い出して、旧建設省や電力会社の幹部ダム技術者だった知人や友人たちは顔をゆがめて口々にこう語る。 「現場を見るまでは、まったく信じられない思いだった」。現地調査に出向いたというダム技術者たちも一様にこう追想するのである。
「果たしてこの大事故は事前に予測・防止できなかったものなのか」。発生時点から論じられてきた。「ダム先進国」アメリカで起きた大惨事の一大ニュースは、アメリカ国内はもとより全世界を駆け回った。(この年はロッキード事件で日本の政財界が震撼していた)。同州南部を流れるスネーク川支流ティートン川に建設されたティートンダム(Teton Dam)が突然決壊した。約3億1000万トンもの濁流が貯水池から一挙に流出し、津波のようになって下流の町や農場・牧場を襲い甚大な被害をもたらした。同ダムは内務省開拓局(U.S.B.R)が建設し、初めて湛水(たんすい)がほぼ満水に近づいたときに崩壊が発生した。「あるまじき」惨事の全容は今日よく知られており、事故発生後に政府(開拓局、陸軍工兵隊、農務省など)と学識経験者(連邦政府以外の専門家)による個別の分厚い調査報告書が刊行されている。いずれも設計施工ミスと緊急対処の不徹底を鋭く突いている。(ちなみに曽野綾子『湖水誕生』(高瀬ダム建設をモデルにした土木文学)の後半部分にこの大惨事が報告の形をとって詳しく描かれている。ティートンダム崩壊が、いかに各方面の関心を集めたかをうかがわせる)。
同ダムは洪水調節、灌漑(かんがい)、発電、リクリエーションを目的にした多目的ダムとして計画された。堤高93メートル、堤頂長930メートル、湛水面積8.5キロ平方メートルで、アメリカ西部ではごく普通のどこにでもある大きさのアースダム(ロックフィルダム)といえるが、野生動物保護区が67キロ平方メートルも確保されていた。1972年に着工し、この年盛土を完了したばかりで、ダムの主放流管や発電施設など一部の工事はまだ終っていなかった。河床には30メートルの厚さで河床堆積物があるが、これに逆三角形に止水トレンチを掘り込んでいる。ダムサイトの透水性が極めて高いことは建設段階から指摘されていた。
|
|
|
|
|
|
|
|