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崩壊ダム跡:史跡となる

 私は長年河川・湖沼をはじめダムとダム湖に関心を持ってきたが、「ダムの現場で一箇所だけ行きたい所を上げよ」と言われれば、文句なく「ティートンダムだ」と答えたであろう。(正確に言えば「ティートンダムの崩壊跡地だ」であろう)。長年の希望が実現して、昨年(2005)秋に現地を訪ねることができた。濁流の直撃を受け被災の最も大きかったレックスバーグを訪ね、「ティートンダム博物館」に入った。同館は開拓時代の倉庫を改良したようなちっぽけな建物で、初老の館員(男性)によれば「Teton Flood(ティートン洪水)」の資料を保管している最大の博物館だと言う。事故発生当時のニュースフィルム(迫力満点!)を見た後、管内に保管されている新聞記事や現場と被災地の写真それに関係図書類を閲覧させてもらった。ここで30年前の状況を関連資料により簡単に再現する。



 ダムの湛水は前年1975年3月から始まったが、ダムの漏水が始めて確認されたのは、崩壊2日前の6月3日、漏水箇所は右岸ダム下流180メートル及び270メートルの河川水位からわずかに高い箇所であった。前日には右岸アバットメント付近でも漏水が見られるようになる。決壊当日の6月5日、午前9時半から10時には右岸アバットメントに漏水があり、漏水により堤体に穴が見られるようになった。この穴は次第に大きくなり、漏水量は急激に増えた。11時には貯水池内に漏水による渦が発見された。(現場で撮影されたムービーフィルムが残されている)。堤体を貫流した貯水池内の水が下流に流れ始めた。11時57分、ダムは決壊した。決壊まで、わずかに2時間半足らずであった。ダムサイトの発電所、管理用建物、倉庫などの建造物は土砂に埋もれてしまった。ダムから流出した濁流は、80マイル(1マイルは焼く1.6キロ)流れ下りアメリカン・フォール湖に流入した。被害の概略は、死者11人、負傷者数千人、罹災農地11万2000エーカー、被災戸数8000戸、死亡家畜6000頭、被害総額は10億ドル(ざっと4000億円)。政府による被害補償約4000件、約400万ドル。アメリカ国内での最悪のダム崩壊被害である。

 「町の大半が濁流に洗われた割には犠牲者が少ないですね」と私は質問した。海軍水兵として佐世保の米軍基地で生活したことのあるという館員は「この町がモルモン教徒の町であることを考えて欲しい」と答えたが、氏ももとよりモルモン教徒である。モルモン教はキリスト教の一派だが、長い被抑圧の歴史を持っている。(この件については後述)。

 博物館を出てダム崩壊現場に向った。約2時間のドライブの後、「史跡ティートンダム」の案内板を頼りに現地を探し、丘陵地に残された現場にようやく着いた。山間地のロックフィルダムをイメージしてきただけに、なだらかな丘陵地を蛇行する川に建設されたことが意外であった。ダム堤体は赤茶けた土をむき出しにしたままで崩壊時の姿のまま放置されている。周辺に雑草が生い茂っている。誠に無残である。再建を求める声が地元農民から上げられたが、政府は二度と計画しなかった。30年経った被災流域にはその爪あとは既になく、ダム崩壊跡地は今や「史跡」となっている。



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