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◇ 7. 本河内高部、低部ダム、西山ダムの 建設

 長崎市は昔から水不足に悩まされてきた。長崎水道は延宝元年(1673年)に倉田次郎右衛門が私財を投じ創設した「倉田水樋」が始まりである。

 明治期に入り、長崎市は人口が増加し、飲料水が不足し、それにコレラが猛威をふるったため、早急に近代水道の布設の必要が高まった。

 日下義雄県令は、港湾都市長崎発展の緊急課題である見地から水道設置を決意し、吉村長策を長崎県技師として水道設計監督にあたらせた。中島川上流に明治22年4月着手、明治24年3月日本初の水道専用ダム本河内高部ダムが完成した。

 丹羽漢吉編『長崎市水道九十年の歩み』(長崎市水道局・昭和57年)、長崎市水道局編・発行『長崎市水道百年史』(平成4年)によると、高部ダムの諸元は、堤高18.1m、堤頂長127.3m、有効貯水容量36.16万m3で、型式はアース式である。
 給水人口6万人であった。


『長崎市水道九十年の歩み』

『長崎市水道百年史』
 堤体は普通土、精選土、粘土(心壁)に区分された構造をなしており、表面には自然石張り取水塔は煉瓦ブロックに積み上げ漏水対策にモルタル塗布を施すなど、工事はすべて力作業で行われた。
 長崎水道の開設は、明治20年横浜水道、明治22年函館水道に次ぐ3番目であった。これらの2つの水道はともに河川からの取水であったが、長崎水道は日本初の貯水ダムからの取水利用であったことが特筆に値する。
 しかしながら、本河内郷の山間部に近代水道が完成して、わずか3年目で早くも長崎は水飢饉が生じた。そのため、給水人口18.2万人とする、本河内ダムの下に低部ダムが、西山川の上流に西山ダムが造られた。この工事の設計と工事部門は高部ダムと同様に、佐世保鎮守府勤務の吉村長策海軍技師が担当した。
 明治36年完成の本河内低部ダムの諸元は堤高22.73m、堤頂長115.15m、堤頂幅2.8m、総貯水容量63.4万m3、型式重力式コンクリートダムである。
 一方、翌明治37年完成の西山ダムの諸元は堤高31.82m、堤頂長139.39m、堤頂幅2.84m、総貯水容量152.7万m3、型式は重力式コンクリートダムである。
 昭和57年7月の長崎大水害を機に、本河内高部ダム・低部ダム再開発事業によって、西山ダムは利水と治水を併せ持つダムに改修された。








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