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ダム番号:2044
 
大井上ダム [山口県](おおいかみ)



ダム写真
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左岸所在 山口県下関市豊田町西市 
河川 木屋川水系稲見川
目的/型式 A/アース
堤高/堤頂長/堤体積 17.5m/58m/千m3
総貯水容量/有効貯水容量 88千m3/88千m3
ダム事業者 矢口耕地水利組合
本体施工者 金重組
着手/竣工 /1936
諸元等データの変遷 【05最終→06当初】左岸所在地[豊浦郡豊田町大字西市→下関市豊田町西市]
【06最終→07当初】河川名[稲見川→二河川]
【07当初→07最終】河川名[二河川→稲見川]
【08最終→09当初】堤高[17.5→18]
【09当初→09最終】堤高[18→17.5]

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大井上ダム(山口県下関市)の位置確認について

拾泉舎(山口県)
 
 山口県における既設ダムのうち、ダム便覧(平成28年7月現在)において未確認となっている唯一の存在が大井上ダムです。ダム便覧に写真等の掲載がなく、地図や行政資料、豊田町史などにおいても記述が確認できません。
 ダム便覧に掲載されている情報では、大井上ダムは堤高17.5m、堤頂長58m、貯水容量88,000立方メートルのアースダムとされています。下関市豊田町に点在する溜池は貯水容量10,000立方メートル未満の小さなものが多く、これと比較すると大規模な部類に属します。また、堤高・堤頂長から考えると、いわゆる谷池であることが推察されます。
 下関市豊田町は筆者の出身地であり、そこに所在するはずのダムであれば是非訪問してみたいと願っていたのですが、長らく位置の確認ができずにおりました。このたび諸資料の調査や地元の方への聞き取りにより、概ねその場所を推定できたのではないかと感じていますので、概要をレポートさせていただきます。

1.所在地について

 大井上ダムの所在地は「山口県下関市豊田町西市」とされています。西市(にしいち)は旧街道沿いに発展した歴史ある地域で、中世以降は市(いち)として栄え、近代においては長門鉄道(廃線)の駅も置かれていました。また、天然記念物木屋川ゲンジボタルの発生地として知られ、初夏にはホタル祭りやホタル船で賑わいます。平成17年の平成大合併によって、現在は下関市豊田町となっています。
 現在の行政区域で豊田町大字西市と呼ばれている範囲は、豊田町の中心部に位置する約5ヘクタールの狭隘な区域で、全域がほぼ平坦な地形です。総合支所に隣接して住宅街・商店街が形成されており、ダム・溜池の類が存在しないことは瞭然としています。また、大字西市に隣接する河川は、木屋川(本流)と木屋川水系山田川であり、これも大井上ダムの接続河川が稲見川(いなみがわ)であるという情報とは相違しています。地形から考えると、過去のどこかの時点で溜池(特に堤高の高い谷池)が存在した可能性もほとんど考えられません。
 歴史的に見れば、西市と呼ばれる地域は藩政期における矢田村(やたむら)の一部であり、明治期に矢田村から分離した経緯があります。その後は、矢田村を含めて西市と称した時期があるなど、複雑に改称、分離及び合併を繰り返しています。所在地である西市の定義について、範囲を広げて考えてみる必要がありそうです。
 広義の西市として想定できる範囲は、昭和29年まで存在していた「西市町」です。豊田町の東端を占める南北に長いエリアで、現在の豊田湖(木屋川ダム)の東方から、西市・矢田・殿敷などを含む約49平方キロメートルの範囲です。木屋川を中心として多くの農地が広がり、一定の規模を持つ溜池も何基か存在しています。
 大井上ダムの竣工年である1936(昭和11)年当時は、この西市町が置かれていた時期です。当時の表記「山口県豊浦郡西市町」を単純に現在の地名に置き換えて「山口県下関市豊田町西市」としたことは十分に考え得ることから、このたびは、この昭和期まで存在した西市町(以下、単に「西市町」と表記します。)の範囲を検討対象とすることにしました。

(参考)
安政年間頃    豊浦藩村浦明細書に矢田村、庭田村、今出村、伊藤田村、地吉村、大河内村、殿敷村、楢原村が記述されている。
1889(明治22)  町村制施行により豊田奥村を設置(矢田村、西市町、庭田村、今出村、地吉村、大河内村、殿敷村、楢原村の合併による)
1899(明治32)  豊田奥村を西市村に改称
1924(大正13)  西市村を西市町に改称
1954(昭和29)  新設合併(西市町、殿居村、豊田中村、豊田下村)により豊田町を設置
2005(平成17)  新設合併(下関市、菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町)により下関市を設置


豊田町西市の町並み
2.河川について

 大井上ダムの接続河川は、ダム便覧において稲見川とされています。稲見川は稲見地区を上流端とする全長約7qの小河川で、楢原で木屋川右岸に合流しています。稲見川自体に設けられた溜池はなく、流域の溜池もごく小規模なものが少数存在するのみで、数万立方メートルの容量を有するような溜池は見当たりません。なお、諏訪が原と呼ばれる地区で川が蛇行し幅が広がっている箇所がありますが、溜池ではありません。
 ダム便覧の基礎となっている国土数値情報においては、接続河川名が誤っていることが往々にしてあることから、河川についても少し対象範囲を広げて考えてみます。
 西市町の範囲内を流れる河川は、木屋川本流のほか、今出川、白根川、大洲田川、神上川、中畑川、稲見川、山田川、殿敷川、丸山川等があり、いずれも木屋川の支川です。稲見川と混同が生じるとすれば木屋川の右岸に存在する河川である可能性が高く、稲見川の上流右岸で木屋川に接続する神上川(こうねえがわ)、稲見川の下流右岸で木屋川に接続する山田川(やまだがわ)の2つがこれに該当することから、大井上ダムは神上川、稲見川、山田川の流域にあるのではないかと推測します。現在の行政区域では、大河内、楢原、殿敷、長正司、矢田、西市の範囲となります。

3.ダム名について

 古い溜池の命名を考えるとき、最も一般的な事例は地名に基づくものだと思われ、全国の大多数の溜池がこれに該当するものと思われます。また、これに続く例としては、伝承や史跡等に起因するもの(光明池、青野大師ダム、神籠池など)、整備年代や先後関係に起因するもの(大正池、昭和池、新池)等が考えられます。
 「大井上」という語感からは伝承等は連想し難く、近隣の史跡や伝承にも関連する語は確認できません。やはり地名に由来すると推測することが最も自然ではないかと思われるため、下記の各可能性を想定し、考察の一助とすることとしました。

(1) 地名「大井」または「大井上」案
大井または大井上を地名と考える案です。「大井にある上池」「大井上にある池」の双方が考えられますが、前者の場合は、これに対応する下池の存在が想定されます。
現在の地名(大字)においては、大井または大井上という名称が存在しないため、少し古い文献をあたってみることとしました。

◇『防長地下上申』
一 西ノ方庭田村境ハ、右小谷の頭長尾山よりかう/\岩迄嶺尾切、当村の川平え庭田より落ル小川を渡り、同しの道を横切り、笹が浴頭の尾境を通り、笹か浴のあぜ切を通り尻無尾え取付、大井道原の尾筋頭を登り、此所迄庭田との境也
一 西南之間阿座上村との境ハ、右大井道原の尾筋より嶺尾切境ニ尾崎えおり込ミ、石橋え取付キ、此所ニて当村より阿座上え出る道を横切り、小川切境ニ登り、此所迄阿座上村との境也
※「/\」=くの字点
 萩藩の村勢要覧である『防長地下上申』(享保〜宝暦年間、1727〜1753頃)において、西市町の範囲を確認してみると、矢田村の境界に関した記述の中で大井の文字を見付けることができました。この一文からは、庭田村及び阿座上村との境界周辺に大井道原という地名があったことが窺えます。当時の境界線は明らかではありませんが、“尾筋”の語から判断すると、山沿いに位置する区域であると思われます。現在の矢田、庭田及び阿座上の三地区が接する箇所は豊田中央病院西方山中にあたり、山越えで矢田と庭田を結ぶ道路(市道庭田鷹ノ子線)の峠付近になることから、おそらく当該地周辺を指しているのでしょう。もし大井上ダムという名称が大井道原という地名に由来するものであれば、当該地周辺にその存在が推定されます。

◇『山口県地名明細書』
矢田村  堂の前 火ノ口 小曽野 寺内 笹尾 今市 生ノ田 野
     大井道 平繰 山田 岩坂 鼠坂 川平
 『山口県地名明細書』は、山口県の地名研究上著名な資料で、明治8年の「山口県大小区村名書」等を底本としています。後の西市町となる地域の中では、唯一矢田村において、「大井」に類似した地名が掲載できました。小村名(大字)として挙げられている「大井道(おおいど)」は、前述の防長地下上申に記された大井道原と同一地を指すものと推測されます。
 なお、西市町内にある字名は掲載されていません。

(2) 地名「井上」案
 井上(いかみ、いがみ、いのうえ)という地名に、これを形容する「大」を付したとする案です。例えば大小の溜池を呼び分ける場合や、既設ダムの近隣に新たな大規模ダムが建設された場合等に命名される可能性があります。
 しかしながら、豊田町史、防長地下上申、山口県地名明細書等で該当地名を探したところ、いずれの文献においても井上という地名は確認できませんでした。従って、本案は除外できるものと考えます。

(3) 「殿敷大井手堰」案
 殿敷大井手堰は木屋川本流に設けられた農業用取水堰で、その起源は大化の改新まで遡るとも言われます。明治初頭頃、木屋川通船事業等を手がけていた中野半左衛門により改修され、今も現役で機能しています。各種資料では、殿敷大井手堰という名を略して殿敷大堰、大井手、大井堰または単に大井と表記されており、仮に溜池の所在地が殿敷大井手堰より上流であった場合、これを「大井上」と称する可能性がないとは言えません。
 ただし、殿敷大井手堰の所在地は稲見川が木屋川に接続する地点より上流にあるため、大井上ダムが稲見川に接続するという情報とは矛盾することとなります。また、大井手堰は木屋川本流に設けられたものであり、支川上に位置すると思われる溜池の名称として用いることは不自然な印象です。

4.管理者及び施工者について

 大井上ダムの管理者は「矢口耕地水利組合」とされています。矢口は地名と考えることが自然だと思われるのですが、豊田町内においては、古い字名等を含めて矢口という地名は確認できません。
 一方で、地元の人間ならばすぐ気がつく類似の地名に「矢田(やた)」があります。現在では豊田中央病院や西市小学校周辺を指す大字となっていますが、前述のとおり、明治期までは現在の西市を含めた広い範囲が矢田村と呼ばれていました。
 「田」と「口」の字形類似から考え、矢口は矢田の誤記という可能性は十分考えられます。なお、現在の豊田町の地名(大字)のうち、語頭が「矢」で始まる地名は矢田のみであり、語尾が「口」となる地名は存在していません。『山口県地名明細書』では、矢田村の小村名として「火ノ口」が、今出村の小名として「今出口」がありますが、字形も文字数も異なることから、「矢口」なる地名との錯誤は生じ得ないと思われます。
 豊田町史においては「矢田耕地整理組合」の存在が記されており、設立認可年月日が昭和10(1935)年9月30日、工事着手年月日が昭和10(1935)年12月8日とされています。ダム便覧における大井上ダムの竣工年が昭和11(1936)年ですから、まさに同時期に施行されていた耕地整理事業であり、関係性が強く疑われます。
 大井上ダムの施工者は「金重組」とされています。西市町内または豊田町内に所在する業者とは限らないため、下関市全域まで広げて電話帳等で調べてみましたが、現時点で同名・類似名の建設会社は存在しないようです。ただし、下関市内において金重及び兼重という姓は一定数存在するため、過去において当該名の建設業者が存在した可能性はあります。

5.調査対象溜池の決定

 前記2〜4のとおり、大井上ダムは木屋川右岸側にあると推定されること、所在地と思しき「大井道(大井道原)」が矢田地区にあること、竣工当時に矢田耕地整理組合が活動していたことを考え合わせると、大井上ダムは矢田地区またはその周辺に存在する可能性が高いと思われます。
 矢田地区周辺で規模を満たす溜池を探していくと、全ての条件に適合しそうな溜池が1基だけ存在することがわかります。矢田地区と庭田地区の境界にある「平原(ひらばら)ため池」です。平原ため池については、『平成22年度下関市地域防災計画資料編』に掲載されていますので、その概要を転記します。

 ため池名:平原 
 管理者:共同
 位置:豊田町大字矢田
 堤高:10.0u
 堤頂:48.0u
 貯水量:50,000立方メートル

 堤高・堤頂長ともダム便覧の数値よりは小さく、ダムの条件も満たしていません。しかし近隣溜池の中ではかなり大きな規模であり、50,000立方メートルという貯水量も群を抜いています。また、古い地図ではすぐ下流に小規模な溜池が確認でき、地名を検討した際に想定した上池・下池があるという仮定にも合致します。
 平原ため池については、山口県が実施する県営中山間地域総合整備事業の対象となっており、県が公開している入札情報を確認すると、平成21年度〜平成22年度にかけて改修工事等を行っています。平成23年度以降の下関市地域防災計画にはその掲載がないことから、改修工事によって危険ため池という取扱いを脱したようです。
 平原ため池が大井上ダムであるかどうかは全く不明な状況ですが、ともあれ平原ため池の現地訪問を行うこととしました。


平原ため池位置図(国土地理院ホームページデータを加工)
6.現地訪問

 平原ため池は下関市役所豊田総合支所の西方約1qの位置にあり、近くには白石公園と呼ばれている丘陵上の公園があります。豊田中央病院の脇を抜けて峠を越える道路(市道庭田鷹ノ子線)からアクセスすると、峠となる位置の近くから未舗装の管理道が設けられており、堤体脇まで自動車で接近することができます。この管理道は近年改修工事のために整備されたものであり、もともとは下流側が接近経路だったのではないかと思われます。
 堤体はよく整備されており、天端は自動車の乗り入れができる程度の幅があります。巻き尺を使用して計測してみると、洪水吐の手前までで約45m、洪水吐の幅を約5m(目視)とすると、計50m程度の堤頂長となります。
 天端からは、現在工事が行われている国道435号線美祢豊田バイパスの橋梁工事現場を望むことができます。


平原ため池堤体
 洪水吐左岸にあり、擁壁や階段のコンクリートは、改修されて間もない状況です。平成21年度〜平成22年度に行われた改修工事によるものだと思われます。


平原ため池洪水吐
 取水バルブは右岸側に設けられています。設備は比較的新しく、これもまた改修工事で改修されたものと思われます。


平原ため池取水バルブ
 洪水吐の脇に設けられた階段は1段が20pの高さでほぼ正確に施工されており、これが天端から樋上面までの間に71段(20p×71段=14.2m)あります。最下段から河床まで目測で約1.5mあることから、堤高はおおよそ15.7m程度ではないかと思われます。
 この値は地域防災計画よりかなり大きくなってしまいますが、ダム便覧における大井上ダムの堤高17.5mとは近似しています。


平原ため池堤体全景
 堤体下の中央に樋の出口があり、山田川へ続く水路となっています。堤体下端周辺では割石を籠枠に詰めて補強としています。


平原ため池樋
 溜池周辺に名称等の表示はなく、名称を確認することはできません。辛うじてダムの条件を充足しているようにも見受けられるのですが、結局この平原ため池が大井上ダムであるか否かの判断はできませんでした。


平原ため池貯水池
7.豊浦郡西市町矢田耕地整理組合資料及び関連文献の確認

 現地確認だけでは十分な確認に至らなかったため、引き続き裏付けとなる文献を探してみました。
 耕地整理法は1900(明治33)年に施行された法律です。豊田町史における矢田耕地整理組合の説明には設立認可年月日が記されており、同法に基づく認可事業として実施されたことが示唆されています。耕地整理の一環として大井上ダムが整備されたと仮定すれば、自治体(おそらくは山口県)において書類が残されているのではないかと考えました。
 山口県文書館のデータベースを検索したところ、同館に豊浦郡西市町矢田耕地整理組合に関する資料が保管されていることが判明しました。確認したところ閲覧可能とのことで、早速文書館に赴きました。
 出庫していただいた資料はB5サイズの紐綴じで、書籍ではなく行政書類をまとめた簿冊でした。ごく薄い縦書きの罫紙に墨書きで記してあり、罫紙の欄外には「設計用紙 山口県」と表示があります。また、青焼きまたは手書き彩色の図面が数枚添付されています。
 内容は設計書、予算書、補助事業の報告、組合の議事録等が一括されており、冒頭に目次が付されています。全体のタイトルが「豊浦郡西市町矢田耕地整理組合」となっています。
全体は相当な分量となりますので、以下関係すると思われる箇所を引用します。筆者転記のため、判読誤り等はご容赦ください。

◇『豊浦郡西市町矢田耕地整理組合』
設計書  豊浦郡西市町矢田耕地整理地區

(略)

四、潅漑状況
地區内田地ハ地區外字川平ニ存在セル上下二個ノ溜池及長正司井堰揚水ニ依リ潅漑セラレツヽアリシモ愚ニ本年六月末ノ洪雨ニ際シ川平上溜池ハ堰堤全ク決潰シ爲ニ下溜池モ余水吐及堰堤ノ一部ヲ決潰シ溜池内ニハ数千立坪ノ土砂ヲ運ビ埋没甚ダシク上下溜池共貯水不可能ニシテ地區内田地用水トシテハ漸ク長正司井堰揚水アルノミノ状態ナリ

(略)

乙、工事施行ノ目的
一、溜池ノ新設及復旧ヲ行ヒ用水補給ノ完全ヲ期ス
二、荒廃用地ノ復旧ヲ行ヒ生産上ノ利用ヲ計ル

第二 工事計劃ノ説明
一、潅漑
一、用水源 決潰セル川平上溜池ニ対シテハ之レガ稍々下流ニ之ヲ換フルベキ溜池堰堤ヲ築造シ仝下溜池ハ災害部分ニ対シ夫々復旧工事ヲ施シ貯水可能ナラシメ長正司井堰揚水ト共ニ地区内田地用水補給ヲ全カラシムル計劃ナリ

(略)

ハ、堤防(新設溜池)
 堤防土堰堤トシ各部の計劃ヲ次ノ如ク決定ス
 内法 二割五分  外法 二割  天端巾 十五尺  中心直高 四十八尺
 最大水深 三十六尺  法止石垣(法五分 高二間 根入共 長十三間)
 鋼土 中心鋼土トシ 両法一分 上巾九尺
 床堀(底巾九尺 深九尺−十五尺 上巾 現盤ニ於テ中心鋼土敷巾ト一致セシム)

(略)

昭和十年十二月七日 工事請負ノ契約ヲ豊浦郡小月町兼重仲之進トナス

 添付されている位置図、設計図を確認し、また他資料と突合を行うことにより、概ね以下のような事実を知ることができました。

・昭和初期の段階で、矢田地区に隣接して「川平上溜池」「川平下溜池」が存在していた。
・川平上溜池の所在地や形状は現在の平原ため池と全く一致しており、川平上溜池の別称が平原ため池であると判断される。
・国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで過去の空中写真を確認すると、昭和43年の空撮写真では2つの溜池が写っているが、昭和50年の空撮写真では川平下溜池の湛水域が消滅している。
・昭和10年6月末の豪雨により、川平上溜池は決壊し、川平下溜池も被害を受けた。このことは豊田町史でも確認でき、昭和10年6月30日の出来事として「二七日より四日間に亙り大暴風雨、殿敷・中村・稲光・西長野・東長野・城戸など全面木屋川の水氾濫、矢田の川平溜池決潰して長正司町・西市地方・新町など浸水、流失家屋一戸」と記録されている。
・県費補助による耕地整理事業として、両溜池の改修・復旧工事を実施した。
・設計上の高さは48尺(約14.5m)。
・施工者は豊浦郡小月町(現在の下関市小月)の兼重仲之進である。

8.地域の方への聞き取り

 平成28年6月に、矢田地区在住で地域の郷土史に関して見識のある方を訪ね、次のようなお話を伺うことができました。

・平原ため池は町内でも一二を争う規模の溜池である。
・平原ため池の別称が川平溜池だが、現在は平原ため池ということが多い。中央がくびれた形状から、「ひょうたん堤」とも呼んでいた。
・数年前に改修工事を行った。その際に堤高を2〜3m下げているのではないか。
・平原ため池のすぐ下流にあった溜池(川平下溜池)は、決壊の危険があったため、既に切開している。現在でも痕跡はあるが水は貯まっていない。
・近くに大井道という地名はある。溜池の名が大井上だとは聞いたことがない。
・溜池の脇に昭和の改修時の記念碑が建てられているが、薮に埋もれているかも知れない。

 併せて、地区に伝わる古い書類も見せていただき、山口県文書館に保管されているものとほぼ同一と思われる図面を確認することができました。また別の図面には昭和初期の頃と思われる地名が記されており、溜池に隣接した西側が「川平」、東側が「平原」、南側が「大井道」であることも教えていただきました。

 引き続き、平原ため池の石碑の確認に向かいました。お話のとおり、溜池堤体の右岸から下っていく古い管理道の脇に大きな自然石の石碑があります。薮の中にあるため、これまでの訪問時にはその存在に気づいていませんでした。石碑にからみつく蔓や枝を取り払うと、正面に文字が刻まれているのがわかります。
 刻字は「改築記念 昭和十年十二月八日起工 昭和十二年三月三日竣功」となっており、耕地整理組合の資料や豊田町史の記述と概ね一致します。溜池名称や経緯が記されていることを期待したのですが、文字はこれだけでした。


平原ため池改築記念碑
9.考察とまとめ

 上記のとおり様々な資料をもとに考えると、平原ため池(川平上溜池)が大井上ダムであると判断する要因がいくつも確認できます。以下にその理由を挙げます。

@大井上という名称に合理性があること
 溜池の多くは藩政期から伝わる古いもので、そもそも正式名称という概念がない場合も多いと考えられます。地区の人々が地名や伝承を元に呼び習わしている名前が引き継がれてきたものであり、途中で改称や訛伝も多く生じているはずです。例えば同じ豊田町内でも、古い文献中に見える山王堤(さんのうつつみ)が、近年の地図では三野堤(さんのつつみ)と表記されるなどの事例が散見されます。
 平原ため池を取り囲む地名は、「平原」「川平」「大井道」です。溜池を隣接地の名をもって呼称することはごく自然な方法であり、現に平原ため池及び川平溜池の名は実在しています。大井道に因む名称は資料中で発見できなかったものの、過去のどこかの時点で、便宜上(例えば官公庁によるリストアップ)の際の名称として大井(道)の名を冠した可能性は十分考えられるのではないでしょうか。「上」という文字も、以前は上池であった溜池の性格をよく表しているのではないかと思われます。
 別の仮説として、大井道(おおいど)を「大井土」と当て字表記し、さらに転記ミスが重なって「大井上」としたのではないかとも思い当たりましたが、推測の域を出ていません。

A管理者、施工者の情報が極めて近似すること
 国土数値情報のデータには、しばしば誤字や誤記が紛れ込んでいます。古い手書き資料から転載する際には、十分起こりうることかと思われます。
管理者「矢口耕地水利組合」が「矢田耕地整理組合」、施工者「金重組」が「兼重組」の誤りだとすれば、矢田耕地整理組合資料と完全に一致することとなり、平原ため池が大井上ダムであるとの証左の一つになります。

B施工時期が一致すること
 平原ため池は、3年に及ぶ県費補助事業として改修工事が実施されており、昭和初期においては大事業であったものと思われます。その詳細は豊田町史、山口県文書館所蔵資料、矢田地区に伝わる文書等で詳しく確認することができます。
 平原ため池の改修工事竣工年(1937)と大井上ダムの竣工年(1936)はほぼ一致している状態ですが、両者が別の存在だとすれば、西市町内で2つの溜池工事が同時進行していることになります。平原ため池については多数の記録が残されている一方で、大井上ダムについては何の記録も確認できないという現象はかなり不自然です。ついては、平原ため池が大井上ダムであると考えるのが、最も無理のない解釈だと思われます。

C他に該当する規模の溜池が存在しないこと
 平原ため池は総貯水量50,000立方メートルとされており、西市町の範囲に限れば、最大規模の溜池であると思われます。大井上ダムの総貯水量とされる88,000立方メートルとはかなり乖離がありますが、平原ため池と大井上ダムが別の存在だとすれば、他の溜池を大井上ダムに比定せざるを得なくなり、一層乖離が拡大します。
 また、堤高堤頂長に関しては、平原ため池と大井上ダムは、かなり近似した数値となっています。
 単純に規模の面から比較した場合においても、平原ため池と大井上ダムは同一のものであると判断するのが妥当と言えます。

 以上の結果、平原ため池が大井上ダムであると推定するに至りました。両者が同一であることを断定した資料は発見できませんでしたが、今後何らかの方法で確定されることを期待します。堤高10mとの情報もありますので確定と同時にダム便覧から消える可能性もありますが、少なくとも100年近くにわたって西市の農業を支え、何度もの改修工事を経て現在も機能し続けている溜池が、地域の重要な資産であることには変わりありません。
 長文となってしましましたが、以上をもってレポートとさせていただきます。

(推定データ)
名称:大井上ダム → 平原ため池(川平上溜池)
左岸所在:山口県下関市豊田町西市 → 山口県下関市豊田町大字矢田 
位置:北緯34度12分25秒 東経131度3分53秒
河川:木屋川水系稲見川 → 木屋川水系山田川
ダム事業者:矢口耕地水利組合 → 矢田耕地整理組合


◇主な参考文献
『豊浦郡西市町大字矢田耕地整理組合』(山口県文書館蔵、1935〜)
『豊田町史』(豊田町史編纂委員会、1979)
『防長地下上申 第三巻』(山口県地方史学会、1979)
『豊浦藩村浦明細書』(山口県文書館、1965)
『山口県地名明細書』(田村哲夫、1999)
『豊田のふるさと誌』(豊田のふるさと誌編集委員会、2011)
『目で見るふるさと豊田の歴史と文化』(目で見るふるさと豊田の歴史と文化編纂委員会、 1999)
『三豊・西市地区資料』(豊田町文化協会、1996)
『平成22年度下関市地域防災計画資料編』(下関市、2010)
ウェブサイト「山口県土砂災害警戒区域等マップ」(山口県)
ウェブサイト「地図・空中写真閲覧サービス」(国土地理院)

(2016年7月作成)


→ ダム便覧の説明
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