筑後大堰
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この大堰の建設にあたっては、福岡大渇水時と重なり、次のような社会的問題が発生した。第1は、有明漁連から有明海のノリ業に重大な影響を及ぼすとして、反対運動が起こったこと。第2は、筑後川流域は、宮入貝の生息地域であり、ここから水道用水を取水することは、日本住血吸虫病の拡散する恐れがあると懸念されたこと。この吸虫病は日本住血吸虫が宮入貝を中間宿主に寄生、発育しセルカリアに成熟し、水に流出、人畜に皮膚から侵入し、発熱、下痢、腹水、肝硬変などの疾病をおこす風土病である。そして第3は、流域住民による筑後大堰建設差止の訴訟が起こったことである。
漁連に係わる流下量の問題は、昭和55年12月24日「筑後大堰建設業に関する基本協定書」が、「ノリ期における新規利水の貯留及び取水は筑後大堰直下地点流量が40m3/S以下のときは行わないとする。松原・下筌ダム再開発事業によって得られた2500万m3の水量は大堰直下の流量40m3/S以下になった場合は補充に充当すること等」の内容で合意締結された。この基本協定書には、九州地方建設局長瀬戸充、水資源開発公団筑後川開発局長副島健、福岡県知事亀井光、佐賀県知事香月熊雄、福岡県有明海漁業協同組合連合会会長江上辰之助、佐賀県有明海漁業協同組合連合会会長田中茂、立会人として福岡県選出関係国会議員代表衆議院議員稲富稜人、佐賀県選出関係国会議員代表衆議院議員三池信によって交わされた。すでに締結者のなかには鬼籍の人もおられ、改めて時代の流れを感じる。 昭和61年8月松原・下筌ダム再開発事業が完了し、渇水が生じた場合はこの基本協定書により、ノリ期の河川流量確保のため松原・下筌ダムから緊急放流が行われている。
次に日本住血吸虫病は筑後川流域の宮入貝の撲滅が図られた。昭和58年以降宮入貝の発見はされず、この問題も決着をみた。その後、平成2年3月宮入貝が撲滅したとして、日本住血吸虫病の安全宣言がなされた。
昭和53年9月筑後川流域住民による原告 378名は、国等を相手として、筑後大堰建設差止の訴訟をおこした。原告側の主張は「環境アセスメントが行われず、筑後大堰が建設されれば流域住民、漁民、農民の生活を侵害するもの」として、人格権を盾に争った。大堰完成後、昭和63年6月福岡地方裁判所は「被害発生の証明はない」として、建設差止請求を却下し、流域住民は敗訴した。
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このような状況のもとで、7年4ケ月間、勤めた西原恒雄筑後大堰建設所長は『筑後大堰工事誌』の書で、その思い出を次のように述べている。
「先ず周囲の理解を得るために、湛水区域周辺の住民の方々及び工事現場周辺の方々への工事ならびに概要の説明を何回となく行うとともに内水面漁業への影響調査から着手しました。 一方、流下量の問題については有明漁連との間で、九州地建、佐賀、福岡両県で説得が続けられており、昭和54年4月に一応の了解が得られたものとして、工事着工に踏み切ったところ、有明漁連の実力阻止に合い、理事、局長と一緒に現地のトラックの上で13時間、抗議を受け、遂に工事着工を断念せざるを得なくなりましたが、この事件が私にとって現在も強く印象に残っております。 その後、いつ工事が再開できるかわからず何回となく、施工計画、工程の検討を繰り返したものでした。昭和55年12月25日に流下量問題に決着がつき、待っていた工事が再開できたときの喜びは、工事に関係した人々の記憶にまだ新しいものかと思います。 その後工事は順調に進み、出水期も無事乗り越え第一期工事を終え私は退任しましたが、昭和59年10月に立派に竣工式が行われたことは、残られた方々の御努力の賜であり、敬意を表するものであります。」
いまでは、筑後川開発の要であった筑後大堰は、九千部山からの風に筑後川の水が波をうち、野鳥が飛来し、河川敷には散歩する人、ゴルフに興じる人もみられ、市民たちの憩いの水辺空間を創り出している。昭和60年完成以来20年が過ぎ去ろうとしている。
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