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《寺内ダム》 
 江川ダムの直上流に、現在小石原川ダムが計画中である。この計画地点の栗河内地区には、明治9年10月秋月の乱をおこし、ここで自決した宮崎車之助ら7士の碑が立つ。この栗河内から山を一つ越え、佐田川沿いに下ると江川ダムと総合利用を図っている寺内ダムと出合う。貯水池名は美奈宜湖と称され甘木市大字荷原地点に位置し、昭和53年に完成した。完成時に福岡大渇水が生じ、江川ダムの貯水量がゼロとなり寺内ダムのデッドウォ−タ−まで福岡都市圏へ給水した経緯がある。



 この建設記録について寺内ダム建設所編・発行『寺内ダム工事誌』(昭和55年)、『ふるさとのおもいで写真集』(昭和55年)が刊行された。
 ダムの諸元は、堤高83.0m、堤頂長 420m、堤体積 300万m3、総貯水容量1800万m3、地質は黒色片岩、ロックフィルダム、総事業費 254億円、施工者は(株)間組、日本国土開発(株)である。
 補償関係については用地取得面積 114ha、水没関係5集落 147世帯のうち移転数57世帯となっている。
 ダムの目的は、
@ダム地点の計画高水流量 300・/Sのうち 180・/Sの洪水調節を行い、佐田川及び筑後川本川沿岸の洪水被害の軽減を図る。
A筑後川下流の既得用水の補給を行うなど、流水の正常な機能の維持と推進を図る。
B両筑平野の甘木市など2市3町の農地約 5,900haに農業用水最大8.05m3/Sを江川ダムとの総合利用により補給する。
C水道用水3.65m3/S(福岡地区水道企業団 1.669m3/S、福岡県南広域水道企業団 0.777m3/S、佐賀東部企業団 1.065m3/S、鳥栖市 0.139m3/S)の必要補給量を江川ダムとの総合利用により供給している。

   ◇


寺内ダム

 寺内ダムの型式ロックフィルダムであり、技術的に非常に注目を集めた。それ以上に注目を引いたのは、1年6ケ月間の短期間での一般損失補償基準の妥結である。昭和47年2月調査所を開設以来、1年間で諸補償調査を全て完了し、補償基準提示を準備し、昭和48年8月一般損失補償基準妥結、この補償調印式には、水没関係者の夫婦同伴出席で行われた。交渉を振り返って、当時の草場不磋夫用地課長は、短期間の補償解決の要因として、次のように述べている。

・最初の事業説明会では、ダムの必要性、技術的な説明は控えめにして、用地補償の件について多くの時間をさき、抽象的な表現は避け、その場で理解できるようにわかりやすく説明を行った。
・役員に『損失補償基準要綱の解説』の本を配付し、補償に係わる学習会を行い、用地補償の知識を積極的に吸収することによって、補償問題の解決のための判断材料としてもらうように心掛けた。
・建物、立木、庭木の調査方法には、水没関係者の注視のもとで、モデル調査を実施した 。
・土地調査については、国土調査法に基づく地積調査が完了済であったため、一筆調査に代え、公図の使用の了解を得た。
・調査の了解時に、水没線標示杭設置の測量も併せて了解を得た。これによって、相互に補償物件の適格な状況が把握可能となった。
・調査前に、補償基準を示せとの要求に対し、水没者全員注視のもとで、水没家屋の平均的な1戸を想定し、江川ダムの妥結補償の基準を採用し、補償額を算定し、今後の生活設計の目安にしてもらった。
・調査時には、役員と一緒に氏神様に調査の無事息災を祈願した。

 これらを通じ、最初の調査時に水没関係者との信頼関係を得たことは、その後の補償基準、上下流地区に係わる公共補償、事業損失の各々の交渉にも苦労はあったものの、より良い結果をもたらした。この信頼関係の構築は、すでに「情報公開法」の基本的な考え方を先取りしていた、ともいえる。

 寺内ダムは福岡市から35キロ余り、甘木市の中心地から7キロの至近距離に位置する里ダムである。鳥栖から大分へ向かって大分自動車道を走ると、甘木インタ−を過ぎて間もなく、左手方向の山裾に寺内ダムの雄姿を見ることができる。

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