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4.十津川−猿谷ダムの建設


『猿谷ダム工事誌』

 十津川は、その源を奈良県吉野郡天川村大峰山脈北部の山上が岳(標高1719m)西麓より発し、吉野山地を著しく曲流しながら、山地を約 100mの深さに刻んで南流する。上流に猿谷、風屋、二津野ダム等が建設されており、沿岸一体は杉林におおわれ森林資源の宝庫のなかをさらに流下し、新宮川(熊野川)に合流して和歌山県に入る、延長90kmの河川である。

 前述したように、十津川分水事業は十津川・紀の川総合開発事業の一環であって、猿谷ダムは奈良県吉野郡大塔村猿谷地先に昭和32年に建設された。近畿地方建設局十津川利水工事事務所編・発行『猿谷ダム工事誌』(昭和36年)によると、この事業の目的は、猿谷ダムを築造し、十津川右支川原樋川及びその支川の水を川原樋導水トンネル(延長 9.8km、内径 2.4m)によってダムに流入させ、天の川及び川原樋川の水をダムに貯留調整し、天辻分水トンネル(延長 6.5km、内径 3.2m)によって、紀の川水系丹生川に流域変更し、約 300mの落差を利用して、西吉野第1、第2発電所の建設によって最大出力 46100KWの発電を行い、紀の川筋のかんがい用水として利用するものである。

 猿谷ダムの諸元は堤高74m、堤頂長 170m、堤体積17.4m、総貯水容量2330万m3、型式重力式コンクリートダムである。起業者は建設省、施工者は西松建設、事業費49.9億円である。なお、補償関係は移転家屋95戸、取得面積約87.1ha、魚業補償、流筏補償等となっている。昭和31年4月22日大塔村坂本地区で火災がおこり、水没予定の42戸が全焼、水没線内に応急住宅が建設された。その後、この坂本地区移転問題については紛糾したが、最終的には同年8月3日電源開発・が家屋移転協力費を支出することで解決が図られた経緯がある。


猿谷ダム

 昭和32年6月に7年ぶりに十津川分水事業は、竣工し、五条小学校にて盛大に完工式が行われた。直轄ダムとしては、全国唯一の利水ダムである猿谷ダムは、水不足に悩む大和平野に水量豊かな紀の川の水をかんがい用水の分水と併せて発電開発を行うことで完成した。

 築後30年管理を綴った近畿地方建設局猿谷ダム管理所編・発行『猿谷ダム管理のあゆみ』(昭和63年)がある。

【「いらん水だけを流してくる。わしらが欲しい水は流してくれんじゃないか」
「ダムは雨が降ったときに水を溜めるものだ、それにもかかわらず豪雨のときにダムが放流した。一体なんのためにダムを造ったんだ」】

と地元の苦言に悩まされている。
 さらに、出水時のキャンプ場から避難させる苦労について、第12代管理所長植村陸男は、

【現地では、職員が行っていくら警告してもキャンプ場から人が出ないわけですね。というのは十津川村がキャンプ場に入るのに1人 100円を河川敷の清掃費ということでお金を取っているんですよ。お金を取っているものだから、「なぜ出なきゃいかんのだ」とキャンプ場に入っている人と口論が始まるわけです。そこで、どうしようもなくて警察に応援を頼んだのです。人身事故もなくすみましたが、いま考えると背筋の寒くなる思いです】

と語っている。

 平成11年8月14日神奈川県山北町酒匂川上流玄倉川のキャンプ地において、玄倉ダム管理所の職員、警察官の避難勧告に応じず13人が死亡した事故が想い出される。

 次に、この書から管理30年間の労苦を新聞記事で追ってみる。

昭和44年6月9日 放水用ゲート1門が突如開く
         (人身事故なし)
  50年11月27日 ダム造成地で地盤沈下 移転6戸
         危険
  51年6月14日 「十津川分水工事記念碑」(米田
         正文氏の自筆)建立
  52年11月7日 ダム湖畔地盤沈下補修工事始まる
  54年9月10日 上流に貯砂ダム建設(56年完成)
    10月31日 水面覆う大量の流木(台風16、
         20号)
  55年7月29日 淡水赤潮発生
  57年1月12日 西岸に桜並木の遊歩道計画
  59年11月17日 ダム干上がる 送水発電ストップ
  61年2月8日 ジャリ採取許可
    5月30日 ダム右岸展望台完成
    9月26日 川原樋川発電所完工式

 ダム管理の万全を期しながら「水守り」となって努力を重ねているが、全国のダム管理に共通することは「日々勉強し、日々苦労して改善する」(第5代所長本田幸男)の言葉につきるであろう。

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