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『来てくれと頼んだ覚えはない―温井ダム建設34年の軌跡―』(真田義司)である。国内のダムの大半は、水没者の視点から見れば「来てくれと頼んだ覚えは」確かにない。「頼んでいないのに来てしまった」以上は、補償が確約されなければ「たまったものではない」。(以下「ダムの役割」(ダムの役割調査分科会・平成十七年三月刊)を参考し、一部引用する)。
ダム建設によって水没を強いられる地元住民は、家屋、土地、職業といった生活基盤を失う。生活支援対策の核となるのが、事業者によって行われる補償である。昭和48年(1973)に「水特法」が制定されるまでの戦後の補償政策の動向を確認する。
昭和26年(1951)、土地収用法改正により補償の対象とされる権利が明確化され、権利に対する補償の原則が定められた。28年、「電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱」が閣議了解され、次いで建設省直轄事業や土地改良事業にも同じ要綱が決められた。昭和42年、「公共事業の施行に伴う公共補償基準要綱」が閣議決定された。補償すべき範囲の明確化と補償項目の整理統一が図られ、補償額算定方法が統一的に行われるようになった。この間、下筌・松原ダム(国土交通省)に対する建設反対運動が補償のあり方に大きな影響を与えた。
水没者への補償措置は、法制の規定以上にダム事業者や地元自治体の独自の判断によるところが大きい。昭和25年から30年年代には、農地や宅地の造成(山王海ダム、井川ダム、美和ダム、下筌・松原ダム)、集団移住地の造成(湯田ダム、魚梁瀬ダム)、農地取得の斡旋(佐久間ダム、牧尾ダム、四十四田ダム)、就職の紹介・斡旋、職業訓練の斡旋が各地のダムで行われた。昭和44年度から建設省の直轄事業において、ダム事業費の中に「生活再建対策費」を、また58年度からは「生活環境対策費」が設けられた。公共補償の例では、旧国鉄の付け替え(佐久間ダム、湯田ダム)、道路の付け替え、小中学校の移転、役場の移転などに幅広く適用されて、新たな地域づくりに寄与している。
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