[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]


2.庄川の水害

・明治29年の大水害

 昔から庄川は春季の融雪、夏季の梅雨と豪雨のため、ほとんど毎年大出水が繰り返されてきた。庄川編ざん委員会編・発行『庄川−歴史と文化とその開発』(庄川左岸右岸水害予防市町村組合・昭和39年)の引用により、明治29年7月、昭和9年7月の大水害の惨状を追ってみる。


『庄川−歴史と文化とその開発』
庄川は七月二十一日午前、連日の降雨により暴溢し、射水郡二塚村前にて、堤防第一・第二・第三とも一時に決潰し、全川の濁水千保川に浸入して、高岡市は名状すべからざる災害をこうむった。すなわち堤防の決潰六三0間、道路の破損三、七00間、橋梁の流失四、諸建物の流失崩壊二四八棟、家屋の破損および浸水一、五六九棟、田地の流亡一反三畝二六歩、畑の流失四反三畝二九歩、田畑生毛の損耗六町九反八畝二八歩、宅地の流失八反一畝八歩、用悪水路の破損一一カ所、市内被害町数三一カ町におよんだ。つづいて八月二日、九月十日にも同様の出水があり、堤防の決壊三六六間、道路の破損二、一六八間、諸建物の流失崩壊二二三棟、田地の流失一町六畝五歩、畑の流失四町七反、田畑生毛の損耗二町九反四畝二四歩、宅地の流亡二町八反五畝一0歩、浸水一八町一反四畝二0歩、用悪水路の被害一八カ所、被害町数四三カ町に上り、県の総被害は五三0万円の巨額に上った。

・昭和9年の大水害

七月九日午后から降り出した大雨は、猛烈を極めて県下一帯を襲った。十二日になってもなおやまず、庄川の最高水位は一三・一0、平水位の二六倍、最大洪水量は一二一、000個、平水量の五三倍に達した。十一日午前十時十分、ついに浅井村西広上地内(大門町)の堤防が五カ所一三0・にわたって決壊し、これと前後して中田町下麻生地内の堤防も決壊、濁流は怒濤のごとく下流地帯に浸入した。とうとうたる濁水は、中田、浅井、水戸田、二口、櫛田、大門、大島、塚原、作道、七美、下村、片口、新湊、牧野、二塚、野村、高岡方面におよぶ大地域をひたし、射水平野はまさに大湖を現出し、人畜の死傷、家屋、田畑の流失など、大惨害を被った。この洪水による庄川地域の被害額は、じつに一、一七0万円をこえた。
 罹災救助については、官民あげての努力はもちろん、とくに歩兵第三十五聯隊は救助隊を派遣、一コ大隊三中隊を編成し、十二日二コ中隊三八二名を浅井村方面に、一コ中隊一七五名を中田町方面、また新湊方面へ三九名、大門町方面へ五三名を送り、船をもって救援にあたった。このときは、全県下にわたって各河川に洪水があり、庄、黒部の両川は最も惨状を究めたが、全県で、死者二六人、流失潰廃家屋三00戸以上、浸水五、000戸におよんだ。
 天皇におかれては、牧野侍従を遣わし、罹災民を見舞わせられ、内努金を下賜された。

 その後の水害は、昭和11年、22年、23年、27年、28年、33年、36年に続いて起こった。

3.庄川の治水

 庄川の治水事業については、藩政期から弁才天前の松川除4の築堤、柳瀬に続く下流、霞堤が造られている。

 明治16年から3ケ年間、局部的に改修されたが、33年3月、直轄河川として左岸二塚村、右岸大門町より海に至る11kmの改修工事に着手したのが最初である。この間の計画高水流量毎秒 340m3として、主たる工事は大門町付近の川幅の拡幅と下流において小矢部川より分流する工事が計画され、新水路延長約4km、川幅 430mを実施し、大正元年に完成した。しかし、前述のように昭和9年7月庄川、小矢部川の両川に未曾有の大洪水をもたらした。同年より、再改修に着手、庄川において計画高水流量4500m3、小矢部川について基準地点津沢において毎秒1100m3とし、築堤掘削を行った。ところが、昭和28年9月台風13号により、計画高水量を上回る大水害に見舞われた。この災害を起因として昭和30年に計画高水流量を津沢で毎秒1300m3とし、高岡市など主要地点を改修した。(前掲書『庄川』)平成6年の改正について庄川は基準地を雄神で基本高水ピーク流量毎秒6500m3、洪水調節流量毎秒 700m3、河道への配分流量毎秒5800m3となっている。
 小矢部川の基本高水のピーク流量毎秒1300m3(津沢地点)は変わっていない。


[前ページ] [次ページ] [目次に戻る]
[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]