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全項目表
 
ダム番号:2424
 
江川ダム [福岡県](えがわ)


10/09
ダム写真

(撮影:だい)
116143 だい
120475 泉造
082891 日本ダム協会
102872 KIYOTAKA
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どんなダム
 
筑後川初の本格的利水ダム
___ 昭和39年、筑後川水系が、利根川、淀川についで水資源開発促進法の開発水系に指定され、41年、筑後川水系の水資源開発基本計画の決定により両筑平野用水事業が示された。江川ダムは、両筑平野用水事業の基幹水源施設。両筑平野に農業用水を供給するほか、福岡地域の水道用水などを供給。筑後川初の本格的利水ダム。寺内ダムが出来てからは、水供給について寺内ダムと総合利用されている。
江川水源祭
___ 朝倉市をはじめ福岡都市圏などの重要な水源である江川ダムでは、ダム建設に協力した方々への感謝と、ダムの施設の安全と、その年の豊水を祈願して、毎年「江川水源祭」が行われている。2010年には、6月6日に38回目の水源祭がダム堤体上で行われ、地元関係者などが参加して、堤体から厳かに清酒注ぎの式が行われた。
ダム湖は「上秋月湖」
___
甘木市民から公募。江川ダムの所在地は旧上秋月村だったこと、「秋月」は、城下町の面影を残し歴史と文化のある町で、名称そのものが情緒を感じさせることから、上秋月湖が選ばれた。
[写真](撮影:KIYOTAKA)
テーマページ 「理の塔、技の塔」 〜私説・戦後日本ダム建設の理論と実践〜 (10) 高度経済成長と水資源開発
ダムの書誌あれこれ(13) 〜筑後川水系の水資源開発ダム(江川・寺内・筑後大堰・山口調整池)〜
文献にみる補償の精神【8】 「絶対に、私はみなさんの味方です」 (江川ダム・寺内ダム)
ダムツーリング -火の国・九州-
このごろ ダムをうたう(8) -水源祭-
左岸所在 福岡県朝倉市江川字カウシキ  [Yahoo地図] [DamMaps] [お好みダムサーチ]
位置
北緯33度27分36秒,東経130度44分03秒   (→位置データの変遷
[近くのダム]  寺内(4km)

河川 筑後川水系小石原川
目的/型式 AWI/重力式コンクリート
堤高/堤頂長/堤体積 79.2m/297.9m/261千m3
流域面積/湛水面積 30km2 ( 全て直接流域 ) /86ha
総貯水容量/有効貯水容量 25326千m3/24054千m3
ダム事業者 水資源開発公団二工
本体施工者 西松建設・大林組
着手/竣工 1967/1972
ダム湖名 上秋月湖 (かみあきづきこ)
ランダム情報 【ダム湖百選】(財)ダム水源池環境整備センターのダム湖百選に選定される(H17.3.16公表)
【ダムカード配布情報】H28.10.1現在 (国交省資料より作成、情報が古いなどの場合がありますので、事前に現地管理所などに問い合わせるのが確実です) Ver1.1
○両筑平野用水総合事業所 8:30〜17:00(土・日・祝日含む)管理所玄関のインターホンを押してください。休日は、巡視等で不在の場合があります。
ダムカード画像コレクション
江川ダム Ver.1.0 (2007.07)
[協力:け〜]
江川ダム Ver.1.1 (2014.03)
[協力:ミッキー]
リンク Dam's room・江川ダム
THE SIDE WAY・江川ダム
ウィキペディア・江川ダム
ダムカード(水資源機構)・江川ダム
江川ダム(水資源機構筑後川開発局両筑平野用水管理所)
事業概要(福岡地区水道企業団)
諸元等データの変遷 【06最終→07当初】左岸所在地[甘木市上秋月町字江川→朝倉市江川字カウシキ] 河川名[小石原川→大根川]
【07当初→07最終】河川名[大根川→小石原川]
【08最終→09当初】堤高[79.2→79]
【09当初→09最終】堤高[79→79.2]

■ このごろ → このごろ目次
ダムをうたう(8) -水源祭-

 
 炎天に挑みてダムの水真青  西村静恵

 岡部六弥太・平田羨魚共編「福岡吟行歳時記」(りーぶる出版・昭和54年)所収。この句は甘木市(現朝倉市)の江川ダムの項に載っている。

江川ダム(上秋月湖)は、筑後川総合開発事業の一環である両筑平野用水事業の基幹施設として、水資源開発公団(現水資源機構)によって、昭和47年に完成した。その目的は農業用水、水道用水、工業用水を供給することでである。江川ダムの諸元をみてみると、堤高79.2m、堤頂長297.5m、堤体積26.1万m3、総貯水容量2530万m3、型式は重力式コンクリートダムで、施工者は西松建設、大林組である。

 江川ダムは完成後間近、昭和53年に脚光をあびた。それは福岡都市圏における、昭和53年5月〜54年3月の287日間に及ぶ給水制限がなされた時のことである。福岡大渇水であった。連日、干上がった江川ダムの姿がテレビ等に映し出された。

 平成20年6月2日現在、ダムの貯水率は83.7%で、この掲句のように湖水面は真青に染まっている。福岡都市圏200万人の生命の水である。江川ダムでは75世帯が水没した。水没された方々の恩を決して忘れることはできない。毎年6月、その恩に感謝するために上秋月湖では水源祭が行われている。

 それは江川水源祭という。昭和48年から開催され、今年は36回目。6月7日に、ダム建設に伴う水没者など地元関係者と、朝倉市、両筑土地改良区、福岡市、福岡地区水道企業団、水資源機構などの関係者が出席して、江川ダム堤体上で清酒注ぎの式などを行うとのことである。

(H20.6.3、古賀邦雄)


■ テーマページ → テーマページ目次

文献にみる補償の精神【8】
「絶対に、私はみなさんの味方です」
(江川ダム・寺内ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 昭和40年以降、福岡都市圏は急速に都市化が進み、現在では 130万人の福岡市をはじめ、春日市、大野城市、太宰府市、筑紫野市、前原市などを含めると人口は 200万人に達する。福岡都市圏の弱点は、都市活動に欠かせない水が中小河川の多々良川、御笠川、那珂川、室見川、端梅寺川などに依存しており、その水源に乏しいことである。

 このため、水源を九州第一の河川筑後川水系に求め、甘木市に、昭和47年8月両筑平野用水事業の基幹施設である江川ダム、昭和53年1月寺内ダムの2つのダムが建設された。
 甘木市は福岡県のほぼ中央に位置し、人口43,000人、面積167.19・の田園都市である。市を縦断するように北から南へ小石原川と佐田川が流れ、やがて筑後川に合流し、有明海へ注ぐ。江川ダムは小石原川、寺内ダムは佐田川の各々の上流に位置する。この2つのダムで開発された水は、いまでは総合利用によって、甘木市女男石地区から導水され、一方筑後川本川久留米市高野地区から福岡導水により、各々のル−トを通して福岡都市圏へ命の水が供給されている。

 このダム建設にあたっては、建設される側と建設する側との間に必ずや葛藤や確執が生じてくる。ダムによって生活の場を喪失する水没者、ダムを造らねばならない起業者とのコンクリフト(紛争)がおこる。このコンクリフトが増大すればする程ダム造りは困難性を伴う。そのなかを取り持つ者が、水没地における市長であり、その役割が常に注視され、その力量が大きくダム建設の進捗を左右することとなる。

 5期20年勤めた甘木市長、塚本倉人著『土と水と炎 塚本倉人自伝』(西日本新聞社・平成元年)の書がある。甘木市における江川ダムと寺内ダムの建設に情熱を注いだ、市長であり、この書から「補償の精神」を読みとることができる。

「私は市議一期目の経済常任委員長時代にダムに関わり、当時、ダム建設の有力候補地だった寺内地区の人たちと話し合いをしたが、地盤の問題などが原因となって暗礁に乗り上げ、代わって江川ダム構想が浮上、昭和37年ごろから本格化した。」
「昭和39年11月私は市長に就任すると改めて江川ダムの建設に心血を注ぎ早期着工を求めて、九州農政局にお百度参りを続けた。このときまでは私は江川ダムの建設の目的はひとえに農業用水の確保にあることを信じて疑わなかった」

 両筑平野用水事業の基幹施設である江川ダムは、根本的に計画が見直され、農業用水のみでなく水道用水、工業用水も確保され、昭和42年4月農林省から水資源開発公団に承継され、筑後川水系における初の多目的ダムの建設となった。
 さらに、塚本市長は、

「江川ダム建設の主務庁は農林省だったが、建設費の予算化については、前提条件として「両筑平野灌漑施設期成会」が水没者の了解を取り付けることになっていた。私は期成会の会長として、また水源地の市長として江川地区の水没者87世帯を一軒一軒説得して回った」

と、ある。

「期成会は昨日までは水資源開発公団とケンカ腰で交渉してきたが、水没者の交渉は逆に期成会が公団側に立たざるを得なかった」
「公共の福祉のためです。どうかダムの建設に協力して下さい」
「市長さん、なんで無理にダムをつクラッシャると?私たちはダムがなくても楽しく暮らしています」と泣いて訴えるおばあさんに答へる術がなかった。のっけから頭ごなしに「期成会」は敵だと思い込む人もいて補償交渉のために用意した会場に入れてもらえないこともあった」
「交渉は遅々として進まなかった。期成会という広域圏の組織体と、甘木市民としての水没者の立場との間に、深い溝が横たわっているようだった。しかも、ダムが農業用水などとして地元に 100パ−セント還元されるわけでなく、福岡市の上水道にもなるなど、水没者にとっては割り切れない気持ちが残るのも当然だった。私は思い余って、確かに私は期成会の会長ですが、同時にみなさんに選んでいただいた甘木市の市長でもあります。絶対に、私はみなさんの味方です。期待を裏切るようなことは致しません。あすから一人ずつ私と会って欲しい。そして、何でも要求をぶっつけて下さい

 塚本市長は「絶対に、私はみなさんの味方です」という、この言動を貫かれた。この「補償の精神」が水没者のために、交渉を貫き通し、水没者の信頼を勝ち取ったといえる。とくに、ワラビ、ゼンマイ、山芋など当時天恵物の補償の制度がなかったものの、この補償を引き出した。
 さらに、公共補償では、水没する江川小学校の移転補償交渉は、移転先の決定や、仮校舎の位置など、困難が予想されたが、決裂覚悟の強い姿勢で臨まれ、甘木市側の要求額で妥結したことである。江川ダム、寺内ダムも短期間の交渉で補償基準の調印が行われた。
 塚本市長の「絶対に、私はみなさんの味方です」という精神が、このような短期間における調印を迎えた一つの大きな要因となったことは確かだ。塚本市長の「補償の精神」の根底にあるのは、それは愛郷心だと思われる。市長は常々水没者の幸せと甘木市の発展を心から願っているからである。青年時代に招集を受け、中国中支戦線に従軍、再度招集を受けた経験が、戦後日本の復興を誓い、その精神が愛郷心を培ったことと推測される。

 昭和48年10月「水源地域対策特別措置法」が制定されているが、この2つのダムは適用されていない。このため塚本市長は、

「江川ダムは措置法の施工前に完成、寺内ダムは施工前に着工という理由だったが、割り切れない思いだった」

と述懐し、なお、提言として、

「ダム建設の可能な地域というのは山間僻地に限られている。つまり政治的、経済的に弱小な市町村である。現在の選挙を基本とする政治形態からみれば、得票に繋がらない地域からの陳情や要望は実現しにくいのかもしれない。しかし敢えて言わせてもらえば弱者に日を当てる政治の原点に立ち還って水源地対策を考えない限りこれからの水資源の開発はあり得ない。」

と述べている。
 繰り返すが、ダム完成の後までも「絶対、私はみなさんの味方です」という精神を貫いていることがよく理解でき、愛郷心が脈々と流れている。

 昭和53年寺内ダムの竣工時に、福岡都市圏は大渇水に見舞われた。この年にはいって、福岡地方は異常少雨傾向が続いた。降雨量は年平均1845mm以下で極端に少なく、福岡都市圏の水源ダムは 730万m3(18.7%)に落ち込んだ。福岡市水道局は5月20日15時間の給水制限を開始、さらに、6月1日給水制限が強化され5時間給水となり、高台にある住宅街では完全断水4万戸を越え、断水による休校も続出、ふるさとへ一時帰宅する渇水疎開を強いられた母子らもいた。自衛隊が出動し、各地から救援水が届いたが、その水を運ぶアパ−ト暮らしの老人たちは特に辛さを味わった。一方では、水を多量に使用する飲食店、美容室、食料店の渇水倒産が起こっている。これらの断水騒動は、翌年の春雨によって、3月25日、 287日間に及ぶ給水制限解除で終止符をうった。この騒動中、福岡都市圏一帯は「福岡砂漠」と呼ばれた。いまから27年前のことであるが、もしこの時江川ダム、寺内ダムの水が福岡都市圏へ送水できなかったなら、さらに市民生活は悪化していただろう。

 この『土と水と炎』の前書きで、当時の福岡市長であった進藤一馬は、大渇水のことにふれて塚本市長の好意に感謝している。

「昭和53年の福岡市の未曾有の大渇水には、最後には寺内ダムのデッド・ウォ−タ−(死水)を取水する緊急措置まで快諾して貰った。水源市甘木市に筆舌に尽くせない厚情を頂いた。実に有り難いことだった。」

 さらに、塚本市長の愛郷心を高く評価されている。  

「人間性の強さ、甘木人として溢るる愛郷の情熱の一生を貫いているのに強く打たれた。事に当たれば行動せずにはいられない猛烈な実行力、市長時代その公用車に消防団の法被をつんで、いざという時には率先して活動する覚悟の敢闘精神で常に市民を護る用意である。」

 いまどき、火事ともなれば、消防団の法被を着て、駆けつける市長は全国にはほとんど見受けられないだろう。この愛郷心がキリンビ−ル、ブリジストン、武田食品等の工場の誘致、高速道路、県道、市道の整備、各小中学校の統合、さらに国鉄甘木線を第3セクタ−方式による甘木鉄道・の設立等、甘木市の発展に繋がった。

 昭和56年10月15日、財団法人日本ダム協会から、第一回の「ダム建設功績表彰」を受賞されているが、このとき「もちろん、金沢良雄東大教授を委員長とする5人の選考委員は、塚本倉人個人を選んだのではなく、水源地として、2つのダムの建設に協力してくれたすべての人たちの代表として、私が表彰を受けたのである。」と、その心境を述べている。

 平成6年8月、福岡地方は、再び異常少雨傾向に見舞われた。平成の大渇水と呼ばれている。このとき昭和53年の大渇水を経験した福岡都市圏は、筑後川からの綿密な配水によって、市民の生活にとくだんの支障が起こることはなかった。このことは江川、寺内ダムの建設にあたった水源地塚本市長の功績は大きい。今日、福岡都市圏の発展の一要因は、水源地甘木市に負っている。それ故に、江川ダム水没者87世帯、寺内ダム水没者57世帯の移転者の方々の恩恵を忘れてはならない。

 市長を辞められた後も、なかなか公私に多忙な日々を送り、そのあいまに柔道や魚釣りを楽しまれた。平成13年5月11日、甘木市の発展に尽くされた塚本倉人市長は89歳の生涯を閉じた。甘木市下二日町の光照寺にいま静かに眠っている。戦後の甘木市の発展は、塚本倉人の人生と重なってくる、歴史でもある。

     喜びも 悲しみも呑み 水静か
                (前川元巳)

(平成18年2月作成)


→ ダム便覧の説明
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