「私は市議一期目の経済常任委員長時代にダムに関わり、当時、ダム建設の有力候補地だった寺内地区の人たちと話し合いをしたが、地盤の問題などが原因となって暗礁に乗り上げ、代わって江川ダム構想が浮上、昭和37年ごろから本格化した。」「昭和39年11月私は市長に就任すると改めて江川ダムの建設に心血を注ぎ早期着工を求めて、九州農政局にお百度参りを続けた。このときまでは私は江川ダムの建設の目的はひとえに農業用水の確保にあることを信じて疑わなかった」
「江川ダム建設の主務庁は農林省だったが、建設費の予算化については、前提条件として「両筑平野灌漑施設期成会」が水没者の了解を取り付けることになっていた。私は期成会の会長として、また水源地の市長として江川地区の水没者87世帯を一軒一軒説得して回った」
「期成会は昨日までは水資源開発公団とケンカ腰で交渉してきたが、水没者の交渉は逆に期成会が公団側に立たざるを得なかった」「公共の福祉のためです。どうかダムの建設に協力して下さい」「市長さん、なんで無理にダムをつクラッシャると?私たちはダムがなくても楽しく暮らしています」と泣いて訴えるおばあさんに答へる術がなかった。のっけから頭ごなしに「期成会」は敵だと思い込む人もいて補償交渉のために用意した会場に入れてもらえないこともあった」「交渉は遅々として進まなかった。期成会という広域圏の組織体と、甘木市民としての水没者の立場との間に、深い溝が横たわっているようだった。しかも、ダムが農業用水などとして地元に 100パ−セント還元されるわけでなく、福岡市の上水道にもなるなど、水没者にとっては割り切れない気持ちが残るのも当然だった。私は思い余って、確かに私は期成会の会長ですが、同時にみなさんに選んでいただいた甘木市の市長でもあります。絶対に、私はみなさんの味方です。期待を裏切るようなことは致しません。あすから一人ずつ私と会って欲しい。そして、何でも要求をぶっつけて下さい
「江川ダムは措置法の施工前に完成、寺内ダムは施工前に着工という理由だったが、割り切れない思いだった」
「ダム建設の可能な地域というのは山間僻地に限られている。つまり政治的、経済的に弱小な市町村である。現在の選挙を基本とする政治形態からみれば、得票に繋がらない地域からの陳情や要望は実現しにくいのかもしれない。しかし敢えて言わせてもらえば弱者に日を当てる政治の原点に立ち還って水源地対策を考えない限りこれからの水資源の開発はあり得ない。」
「昭和53年の福岡市の未曾有の大渇水には、最後には寺内ダムのデッド・ウォ−タ−(死水)を取水する緊急措置まで快諾して貰った。水源市甘木市に筆舌に尽くせない厚情を頂いた。実に有り難いことだった。」
「人間性の強さ、甘木人として溢るる愛郷の情熱の一生を貫いているのに強く打たれた。事に当たれば行動せずにはいられない猛烈な実行力、市長時代その公用車に消防団の法被をつんで、いざという時には率先して活動する覚悟の敢闘精神で常に市民を護る用意である。」