[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]


文献にみる補償の精神【8】
「絶対に、私はみなさんの味方です」
(江川ダム・寺内ダム)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

 これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。
 昭和40年以降、福岡都市圏は急速に都市化が進み、現在では 130万人の福岡市をはじめ、春日市、大野城市、太宰府市、筑紫野市、前原市などを含めると人口は 200万人に達する。福岡都市圏の弱点は、都市活動に欠かせない水が中小河川の多々良川、御笠川、那珂川、室見川、端梅寺川などに依存しており、その水源に乏しいことである。

 このため、水源を九州第一の河川筑後川水系に求め、甘木市に、昭和47年8月両筑平野用水事業の基幹施設である江川ダム、昭和53年1月寺内ダムの2つのダムが建設された。
 甘木市は福岡県のほぼ中央に位置し、人口43,000人、面積167.19・の田園都市である。市を縦断するように北から南へ小石原川と佐田川が流れ、やがて筑後川に合流し、有明海へ注ぐ。江川ダムは小石原川、寺内ダムは佐田川の各々の上流に位置する。この2つのダムで開発された水は、いまでは総合利用によって、甘木市女男石地区から導水され、一方筑後川本川久留米市高野地区から福岡導水により、各々のル−トを通して福岡都市圏へ命の水が供給されている。

 このダム建設にあたっては、建設される側と建設する側との間に必ずや葛藤や確執が生じてくる。ダムによって生活の場を喪失する水没者、ダムを造らねばならない起業者とのコンクリフト(紛争)がおこる。このコンクリフトが増大すればする程ダム造りは困難性を伴う。そのなかを取り持つ者が、水没地における市長であり、その役割が常に注視され、その力量が大きくダム建設の進捗を左右することとなる。

 5期20年勤めた甘木市長、塚本倉人著『土と水と炎 塚本倉人自伝』(西日本新聞社・平成元年)の書がある。甘木市における江川ダムと寺内ダムの建設に情熱を注いだ、市長であり、この書から「補償の精神」を読みとることができる。

「私は市議一期目の経済常任委員長時代にダムに関わり、当時、ダム建設の有力候補地だった寺内地区の人たちと話し合いをしたが、地盤の問題などが原因となって暗礁に乗り上げ、代わって江川ダム構想が浮上、昭和37年ごろから本格化した。」
「昭和39年11月私は市長に就任すると改めて江川ダムの建設に心血を注ぎ早期着工を求めて、九州農政局にお百度参りを続けた。このときまでは私は江川ダムの建設の目的はひとえに農業用水の確保にあることを信じて疑わなかった」

 両筑平野用水事業の基幹施設である江川ダムは、根本的に計画が見直され、農業用水のみでなく水道用水、工業用水も確保され、昭和42年4月農林省から水資源開発公団に承継され、筑後川水系における初の多目的ダムの建設となった。
 さらに、塚本市長は、

「江川ダム建設の主務庁は農林省だったが、建設費の予算化については、前提条件として「両筑平野灌漑施設期成会」が水没者の了解を取り付けることになっていた。私は期成会の会長として、また水源地の市長として江川地区の水没者87世帯を一軒一軒説得して回った」

と、ある。

「期成会は昨日までは水資源開発公団とケンカ腰で交渉してきたが、水没者の交渉は逆に期成会が公団側に立たざるを得なかった」
「公共の福祉のためです。どうかダムの建設に協力して下さい」
「市長さん、なんで無理にダムをつクラッシャると?私たちはダムがなくても楽しく暮らしています」と泣いて訴えるおばあさんに答へる術がなかった。のっけから頭ごなしに「期成会」は敵だと思い込む人もいて補償交渉のために用意した会場に入れてもらえないこともあった」
「交渉は遅々として進まなかった。期成会という広域圏の組織体と、甘木市民としての水没者の立場との間に、深い溝が横たわっているようだった。しかも、ダムが農業用水などとして地元に 100パ−セント還元されるわけでなく、福岡市の上水道にもなるなど、水没者にとっては割り切れない気持ちが残るのも当然だった。私は思い余って、確かに私は期成会の会長ですが、同時にみなさんに選んでいただいた甘木市の市長でもあります。絶対に、私はみなさんの味方です。期待を裏切るようなことは致しません。あすから一人ずつ私と会って欲しい。そして、何でも要求をぶっつけて下さい

 塚本市長は「絶対に、私はみなさんの味方です」という、この言動を貫かれた。この「補償の精神」が水没者のために、交渉を貫き通し、水没者の信頼を勝ち取ったといえる。とくに、ワラビ、ゼンマイ、山芋など当時天恵物の補償の制度がなかったものの、この補償を引き出した。
 さらに、公共補償では、水没する江川小学校の移転補償交渉は、移転先の決定や、仮校舎の位置など、困難が予想されたが、決裂覚悟の強い姿勢で臨まれ、甘木市側の要求額で妥結したことである。江川ダム、寺内ダムも短期間の交渉で補償基準の調印が行われた。
 塚本市長の「絶対に、私はみなさんの味方です」という精神が、このような短期間における調印を迎えた一つの大きな要因となったことは確かだ。塚本市長の「補償の精神」の根底にあるのは、それは愛郷心だと思われる。市長は常々水没者の幸せと甘木市の発展を心から願っているからである。青年時代に招集を受け、中国中支戦線に従軍、再度招集を受けた経験が、戦後日本の復興を誓い、その精神が愛郷心を培ったことと推測される。

 昭和48年10月「水源地域対策特別措置法」が制定されているが、この2つのダムは適用されていない。このため塚本市長は、

「江川ダムは措置法の施工前に完成、寺内ダムは施工前に着工という理由だったが、割り切れない思いだった」

と述懐し、なお、提言として、

「ダム建設の可能な地域というのは山間僻地に限られている。つまり政治的、経済的に弱小な市町村である。現在の選挙を基本とする政治形態からみれば、得票に繋がらない地域からの陳情や要望は実現しにくいのかもしれない。しかし敢えて言わせてもらえば弱者に日を当てる政治の原点に立ち還って水源地対策を考えない限りこれからの水資源の開発はあり得ない。」

と述べている。
 繰り返すが、ダム完成の後までも「絶対、私はみなさんの味方です」という精神を貫いていることがよく理解でき、愛郷心が脈々と流れている。

 昭和53年寺内ダムの竣工時に、福岡都市圏は大渇水に見舞われた。この年にはいって、福岡地方は異常少雨傾向が続いた。降雨量は年平均1845mm以下で極端に少なく、福岡都市圏の水源ダムは 730万m3(18.7%)に落ち込んだ。福岡市水道局は5月20日15時間の給水制限を開始、さらに、6月1日給水制限が強化され5時間給水となり、高台にある住宅街では完全断水4万戸を越え、断水による休校も続出、ふるさとへ一時帰宅する渇水疎開を強いられた母子らもいた。自衛隊が出動し、各地から救援水が届いたが、その水を運ぶアパ−ト暮らしの老人たちは特に辛さを味わった。一方では、水を多量に使用する飲食店、美容室、食料店の渇水倒産が起こっている。これらの断水騒動は、翌年の春雨によって、3月25日、 287日間に及ぶ給水制限解除で終止符をうった。この騒動中、福岡都市圏一帯は「福岡砂漠」と呼ばれた。いまから27年前のことであるが、もしこの時江川ダム、寺内ダムの水が福岡都市圏へ送水できなかったなら、さらに市民生活は悪化していただろう。

 この『土と水と炎』の前書きで、当時の福岡市長であった進藤一馬は、大渇水のことにふれて塚本市長の好意に感謝している。

「昭和53年の福岡市の未曾有の大渇水には、最後には寺内ダムのデッド・ウォ−タ−(死水)を取水する緊急措置まで快諾して貰った。水源市甘木市に筆舌に尽くせない厚情を頂いた。実に有り難いことだった。」

 さらに、塚本市長の愛郷心を高く評価されている。  

「人間性の強さ、甘木人として溢るる愛郷の情熱の一生を貫いているのに強く打たれた。事に当たれば行動せずにはいられない猛烈な実行力、市長時代その公用車に消防団の法被をつんで、いざという時には率先して活動する覚悟の敢闘精神で常に市民を護る用意である。」

 いまどき、火事ともなれば、消防団の法被を着て、駆けつける市長は全国にはほとんど見受けられないだろう。この愛郷心がキリンビ−ル、ブリジストン、武田食品等の工場の誘致、高速道路、県道、市道の整備、各小中学校の統合、さらに国鉄甘木線を第3セクタ−方式による甘木鉄道・の設立等、甘木市の発展に繋がった。

 昭和56年10月15日、財団法人日本ダム協会から、第一回の「ダム建設功績表彰」を受賞されているが、このとき「もちろん、金沢良雄東大教授を委員長とする5人の選考委員は、塚本倉人個人を選んだのではなく、水源地として、2つのダムの建設に協力してくれたすべての人たちの代表として、私が表彰を受けたのである。」と、その心境を述べている。

 平成6年8月、福岡地方は、再び異常少雨傾向に見舞われた。平成の大渇水と呼ばれている。このとき昭和53年の大渇水を経験した福岡都市圏は、筑後川からの綿密な配水によって、市民の生活にとくだんの支障が起こることはなかった。このことは江川、寺内ダムの建設にあたった水源地塚本市長の功績は大きい。今日、福岡都市圏の発展の一要因は、水源地甘木市に負っている。それ故に、江川ダム水没者87世帯、寺内ダム水没者57世帯の移転者の方々の恩恵を忘れてはならない。

 市長を辞められた後も、なかなか公私に多忙な日々を送り、そのあいまに柔道や魚釣りを楽しまれた。平成13年5月11日、甘木市の発展に尽くされた塚本倉人市長は89歳の生涯を閉じた。甘木市下二日町の光照寺にいま静かに眠っている。戦後の甘木市の発展は、塚本倉人の人生と重なってくる、歴史でもある。

     喜びも 悲しみも呑み 水静か
                (前川元巳)

[関連ダム]  江川ダム
(2006年2月作成)
ご意見、ご感想、情報提供などがございましたら、 までお願いします。
【 関連する 「このごろ」「テーマページ」】

 (文献にみる補償の精神)
  [テ] 文献にみる補償の精神【1】「来てくれと頼んだ覚えはない」(温井ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【2】「三年諸役不入とする」(玉川上水)
  [テ] 文献にみる補償の精神【3】「法に叶い、理に叶い、情に叶う」(下筌ダム・松原ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【4】「帝都の御用水の爲め」(小河内ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【5】「怒ったらいかんぜ」(満濃池嵩上げ工事)
  [テ] 文献にみる補償の精神【6】「木の見返りに米をあたえる」(味噌川ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【7】「移住者の従前の生活水準を漸次的に達成するかないしは陵駕するようにする」(三峡ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【9】「役人と農民は交渉の場では対等である」(青山 士)
  [テ] 文献にみる補償の精神【10】「反対派賛成派とふ色分けを吾は好まずただに説くべき」(新海五郎)
  [テ] 文献にみる補償の精神【11】「戦争という大義」(相模ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【13】「あんた 100回位通いなさいよ、そのうち何とかなるでしょう」(城山ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【14】「その我々の前にボ−トとは何ぞ。観光客とは何ぞ」(柳瀬ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【15】『あえて、惜しいと思われる者に辞めてもらうことにした』(八田與一・烏山頭ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【16】「あんた方は絶対反対と云われるが、われわれは絶対つくらにゃならん」(田子倉ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【18】「どこまでも被害者は被害者でないようにしたい」(大野ダム・蜷川虎三)
  [テ] 文献にみる補償の精神【19】「私共は、用地知識を積極的に水没者に与えることによって」(寺内ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【20】「本件収用裁決が違法であることを宣言することとする」(二風谷ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【21】「生きている人間を相手に一片のペーパープラン通りに行くか」(佐久間ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【22】「霊に対して堂々と合掌して香を捧げられます」(箕輪ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【23】「俺は故郷を売り渡してしまった」(美和ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【24】「ここに悠久の大義に生きる」(宮ヶ瀬ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【25】「誰も大事な大事な故郷がなくなることを喜ぶ者はいない」(徳山ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【26】「貴殿方が現在以上に幸福と考える方策を、我社は責任を以って樹立し」(御母衣ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【27】「君の山には木が幾本ある、一本幾らだ…。山ぐるみ買つてやらう。値段を云ひなさい」(小牧ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【28】「そこで、村長は、自らの写真を人柱として土手の下に埋めたのです」(大谷池・愛媛県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【29】「だまって耕作の手伝いをし、薪を割ったり下男代わりの仕事に従事して一事も用地の話はしなかった」(川原ダム・宮崎県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【30】『凡てに対し、只「有難う御座いました」「御苦労さまでした」と感謝の言葉を捧げたいのである。』(一ツ瀬ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【31】「影響はない。ダム完成後、影響があった場合には、調査して、損害賠償の協議に応じましょう」(大渡ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【32】「けやぐにならねば、津軽では仕事が出来ね」(早瀬野ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【34】「艱難辛苦の地と汗の滲む青山の地を未来永劫に湖底に沈むるは真の忍びざるものあれど」(川内ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【62】「ダムの安全性について、多くの熱気ある議論が行われ、我々は、その説明に全力を傾けたものでした」(阿木川ダム)
  [テ] 文献にみる補償の精神【60】「この人になら私たち水没者の気持ちも十分に理解していただけるものというふうに確信したわけです」(厳木ダム・佐賀県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【58】「故郷は路傍の石さえ母の乳房の匂いがする」(北山ダム・佐賀県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【57】「我々は、今竹やりで突き殺し、自分等も死にたい気持ちである」(横山ダム・岐阜県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【56】「クマタカについては巣立ちに成功し、保全対策の効果があったと確信しております」(三河沢ダム・栃木県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【55】「いつも作業衣で腰に手拭いをぶら下げ、地元にとび込み、自ら山をかけ回り」(川治ダム・栃木県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【54】「移転民には十分な補償をしたか」(小河内ダム・東京都)
  [テ] 文献にみる補償の精神【52】「その場に立ててあった簡単な碑に敬けんな祈りを捧げた」(相当ダム・長崎県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【51】「夢に見るのは合角の事や合角の人たちの事ばっかりですよ」(合角ダム・埼玉県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【50】「貴家は秩父市民の注目の的になっている」(浦山ダム・埼玉県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【49】「蜂の巣城への立ち入り調査では黄金の水をかぶる」(下筌ダム・松原ダム、熊本県・大分県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【48】「三十二年間の経済的、精神的な負担に対しての償いを形として表わしてほしい」(緒川ダム・茨城県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【47】「村造りを良くし、文化水準を高めること」(井川ダム・静岡県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【44】「ああ、光栄の三峡大ダムは、われわれの犠牲によったのだ」(三峡ダム・中国)
  [テ] 文献にみる補償の精神【43】「米を一握り持ち、砂子瀬の人に差し出したのです」(目屋ダム・青森県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【39】「明日荒川村に引っ越すので、この風景は今日までです」(滝沢ダム・埼玉県)
  [テ] 文献にみる補償の精神【38】「手ごろな価格で買ってくれる人はいないか」(あるダム水没移転者の嘆き)
  [テ] 文献にみる補償の精神【37】「お嫁さんを迎えた気持ちで、これからの生活に市としても万全を図りたい」(寒河江ダム・山形県)
【 関連する ダムマイスター の情報】

 (古賀 邦雄)
 「このごろ」の関連記事(55 件)
 「テーマページ」の関連記事(159 件)
[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]