これは、「月刊ダム日本」に掲載された記事を一部修正して転載したものです。著者は、古賀邦雄氏(水・河川・湖沼関係文献研究会、ダムマイスター 01-014)です。
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◆ 3. 笠野原台地の開発
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笠野原台地は、大隅半島の中央に位置し、鹿屋市、串良町、高山町の一市二町にまたがり、南北に16q、東西に12qあり、前述のように高隈山系に源をもつ鹿屋川と串良川に挟まれたテーブル状のシラス台地である。表面は黒色火山灰(黒土)で覆われ、その下は数十mのシラス層があり、北から南へ約百分の一勾配で、緩やかに傾斜し、面積約6,000haの広大な台地を形成している。笠野原台地は、保水性に乏しく、降雨があると流出してしまう火山灰土壌に加え、南国特有の集中豪雨と台風の常襲地帯であり、笠野原台地開発は水との闘いであった。その苦難開発の歴史を笠野原土地改良区のパンフレットから追ってみたい。
台地に人が住み開発が始まったのは江戸時代からであったが、明治・大正になっても開発は進まず、荒地が多く、耕地は半分にも満たなかった。それは「水」がないためであり、井戸の深さは50m〜80mにも達し、水汲みの作業には多くの人手や牛の力を借り、井戸の無い人は遠くの川から水を運んだり、雨水を集めた「天水」を利用した。笠野原台地の開発が本格的に始まったのは、1920(大正9)年であった。鹿児島県は鹿屋に土地利用研究所(後の農業試験場鹿屋分場)を創り、笠野原に適した作物の研究を進めることにした。
当時県会議員であった中原菊次郎をはじめ、小野勇市、森栄吉が中心となって、水道組合と耕地整理組合を創り、開発が始まった。「開拓のためにはまず飲料水を確保することが先決だ。」との考えから1925(大正14)年水道工事にとりかかった。工事のほとんどは人力で行われ1927(昭和2)年4月最初の給水が行われた。水道工事が終わり、飲み水の問題が解決され、今度は耕地整理が始まった。1区画3haに区切り碁盤の目のように道路を造り、1934(昭和9)年ごろまでに、約6,000haの耕地が開かれた。しかし、畑を潤すための水はまだ不十分であり、しかも、大部分が開拓会社(昭和産業株式会社)に買い占められ、土地は農民のものでなかった。また、戦時中は飛行場として軍用地となっていたが、戦後農地改革によって、農民の手に解放された。
戦後の昭和22年、食糧不足を解決するため、笠野原畑かん事業の構想が出てきた。それは、高隈ダムを建設し、その水で台地を灌漑するというもので、その後、数年の調査が進められ、昭和30年に笠野原農業水利事業国営第一号として農林省に認定された。 しかし、事業が進むなか、歴史に残る「反対運動」が起こった。まず、ダム建設による水没地区は当時204戸の人々が住み、田57ha、畑5ha、山林原野20haがあり、小学校もある静かな村であったが、ダム建設の話に対して、住民こぞって反対した。漸く理解し、住み慣れた土地をあとに各地移住したのは4、5年経ってからだった。また、水没地区だけでなく、受益地区でも当時「畑かんの事例」はなく、負担金などをめぐり、激しい反対運動が起こり、集落は分裂し、親子兄弟さえいがみ合う状況が続いた。しかし、何とか同意にこぎつけ、1960(昭和35)年、土地改良区を設立し、説得を続けながら、昭和40年に高隈ダムの建設に着工し、昭和42年に台地に通水がなされた。
国営事業が終わったあと、昭和43年から県営・団体営事業の工事が始まり、総事業費85億円をかけて昭和55年にすべての工事が完成した。
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◆ 4. 笠野原農業水利事業のあゆみ
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笠野原農業水利事業に伴う高隈ダム等の建設について、九州農政局笠野原農業水利事業所編・発行『かさのはら』(昭和44年)及びその事業パンフレットで追ってみたい。前述のように笠野原台地の開発については述べてみたが、改めて、年表で次のようにまとめる。
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昭和24年4月 九大野口、吉山教授人工地震による地盤調査 8月 高隈ダム水没地区にダム対策委員会設置される 26年4月 農林省において笠野原畑地灌漑事業として高隈ダム 調査開始 28年6月 串良地区において畑かん反対委員会結成、下小原 公民館で大会を開催 10月 高隈ダム対策委員会トラック宣伝車で村外に乗り出し ダム反対表明 29年 農林省は笠野原農業水利事業計画書作成し提出 9月 笠野原土地改良区設立連合準備委員会発足 30年1月 高隈村鹿屋市に合併承認 国営第一号として畑地灌漑事業採択 |
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『かさのはら』 |
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32年1月 知事、市長水没者説得工作つづく、ダム反対デモをもって迎える 4月 水没地区総会において測量承諾決議 6月 県主催、畑かん先進地視察報告会を串良小学校で開催、むしろ旗林立 9月 串良町の畑かん反対農民大会は町長のリコール運動に発展 鹿屋市畑かん反対同盟結成(上祓川、東原) 33年 鹿屋市競馬場にて1,000名反対派参集し銀輪デモ 鹿屋市農林事務所に来た知事と反対同盟の対決は、800名のデモに包囲され、警察署長以下全員警戒にあたる 5月 県笠野原畑かん推進事務局設置 34年2月 笠野原事業所開設 7月 大隅開発促進大会の出席の知事を反対派農民包囲して投石、武装警官出動 35年11月 笠野原土地改良区を設立 36年4月 水没地区民総会において満場一致で測量受諾 9月 補償交渉開始 37年8月 高隈ダム水没地区補償基準協定調印式 11月 河野建設、重政農林両大臣列席のもとに起工式 38年3月 水没地区解散式 40年2月 高隈ダム定礎式 42年3月 高隈ダム通水式 43年11月 県営畑かん工事着工 44年3月 笠野原農業水利事業完工
このように、44年に約4,800haにて初めて本格的な営農が始まるが、笠野原農業水利事業の完工まで、デモなどによる事業反対運動の激しさが窺える。それを乗り越えての竣工であった。
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◆ 5. 高隈ダムの諸元
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この事業は、肝属川水系串良川支川の高隈川の上流、鹿屋市高隈町下古園地点に、高隈ダム(大隅湖)を築造して1,393万m3を貯水し、これにより笠野原台地に導水して約4,800ha畑地灌漑を実施するとともに、集中豪雨から農地を守るために農地保全事業と、農道整備事業を総合的に施行し、最も近代的土地を整備し、生産性を高め、経済性の高い作目を計画的に導入して、台地農業の飛躍的発展を目的としたものである。高隈ダムの諸元は、次の通りである。
型式は直線重力式コンクリートダム、堤高47m、堤頂長136m、堤体積6.7万m3、堤頂標高160m、堤敷標高113m、流域面積38km2、満水面積104ha、満水位標高158m、利用水深15m、総貯水容量1,393万m3、有効貯水容量1,163万m3、計画取水量3.95m3/s、最大取水量3.32m3/sとなっている。起業者は農林省、施工者は三幸建設工業、総事業費は46.36億円を要した。なお、用地補償は、土地取得93.0ha、水没家屋204戸となっている。
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◆ 8. シラス対策工法
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(1) 止水工(嶺部の補強)
@ 基盤標高が満水位下にある箇所 コンクリート止水壁を設け、止水壁底部のグラウトホールより、風化岩に対しカーテングラウチングを併せて施工する。シラス層に対する止水工法としては他に薬液によるカーテングラウチング、イコス工法等を比較検討したが、地形、工費、確実性の点より、コンクリート止水壁案を採用。施工は地山の被りの厚い所についてはトンネル工法として3層に分けて下層より順次施工したが、地山の被りの薄い部分については、オープンカットによった。
A 基盤標高が満水位上にある箇所 グラウトホールを設け風化岩中にグラウトカーテンを行ったが、孔長は透水テストにより10mと決定し、グラウトホールは止水壁部も含めてダム監査廊に連結させた。
(2) 透水末端工 湧水のあるシラス崖面の安定工法としては、@シラス崖面に水抜坑を掘り、強制的に降下させる。A山留工により法面をおさえる。の2工法が考えられたが、施工の難易の点より、山留工法を採用し、施工した。
(3) 池敷法面保護工 シラスは含水比の増加により急速にその摩擦力を消失することから、池水に飽和されたシラスは法面安定上致命的な欠陥を有すると考えられた。また、崩壊して池中に堆積した場合、貯水池の大幅な貯水量減少が懸念される。 このことを勘案して、貯水池の対岸距離が長く、直接波浪の影響を受けると予想される、ダム地点付近400mについては法面保護を施工した。
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