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早明浦ダムの諸元は、堤高 106m、堤頂長 400m、堤体積約 120万m3、総貯水容量 31600万m3、型式は重力式コンクリートダムである。起業者は水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)、施工者(株)間組、総事業費 331.4億円である。なお、用地取得面積 789ha、移転世帯数 352となっており、水没関係町村は高知県土佐郡大川村、同土佐町、長岡郡本山町の3ケ町村である。次に、用地補償と工事についてその経過を記してみる。
昭和24年予備調査が始まり、昭和35年建設省のダム計画がほぼ固まったとき、大川村中切地区に「早明浦ダム絶対反対」の大看板を掲げ、村内の中心地に 600ケ所に反対の立て看板が立った。水源地の砦として大川村役場庁舎コンクリート3階建を新築。昭和38年早明浦ダム調査所が開設されたとき、村民大会においてダム建設絶対阻止が挙村一致で議決されている。しかし、このような抵抗も高知県など地方公共団体の説得により、徐々に情勢が変化し、昭和41年立入調査を認めることとなった。42年3月ダム本体工事の一部着工。4月早明浦ダムの建設は水資源開発公団に移管された。10月3ケ町村統一の個人補償基準が妥結し、12月ダムの基礎掘削開始、43年12月ダム本体コンクリートの打設開始、昭和48年3月ダム本体工事が完成した。その後たびたび洪水に悩まされている。
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『土木工学大系33ケ−ススタディ ダム』
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48年6月出水、7月初旬集中豪雨、下旬台風9号、9月台風20号、10月出水により、早明浦ダム貯水池は濁水問題が発生した。 その対策として表面取水設備の改良を図り、昭和50年3月に完成した。この濁水については、土木工学大系編集委員会編『土木工学大系33ケ−ススタディ ダム』(彰国社・昭和52年)のなかで、高崎耕道執筆による「早明浦ダムにおける濁水発生、原因、対策、取水設備」に関して掲載されている。また同書に相原信夫執筆「早明浦ダム計画決定」の実例も論じてある。
さらに、昭和50年ダム完成後も台風5号、台風6号、51年台風17号の2年連続、異常な出水により被害が生じた。ダム直下〜吉田橋間約 500mとダム上流貯水池周辺の安全を図るために、民家29戸(31世帯)の移転補償を行い、減勢工の改良を実施し、昭和54年3月にすべての工事を完成した。
昭和46年11月〜昭和53年12月の間、早明浦ダムは第8次にわたって一部使用が行われている。これはダム建設が多年を要しただけでなく、工事途中に表面取水設備の追加工事が行われ、この部分使用を行うため一時水位を低下させる必要があったからである。ここに幾多の難関を乗り越えて吉野川総合開発事業の中核ダム早明浦ダムが誕生した。この誕生まで昭和38年調査所開設以来17年間を要している。
竣工の式 遠捲きに 蝉時雨 (鈴木 茂)
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次に、高知分水事業について記してみたい。早明浦ダム貯水池に流入する吉野川水系瀬戸川に取水堰を設置し、最大4.40m3/Sを取水し、約 4.5m3導水し、同水系平石川支流北郷谷に注水する。さらに平石川に取水堰を設け、注水された水と合わせて最大 6.0m3/Sを取水し、約 9.4m3導水し、鏡川へ分水する。これにより鏡ダムの運用と相まって都市用水1.23m3/S(高知県水道用水0.73m3S、工業用水 0.5m3/S)を確保するとともに、この供給に支障を与えない範囲内で、天神発電所(高知県土佐郡土佐山村)を建設し、吉野川との落差236.20mを利用して、最大出力11,800KWの発電を行うものである。昭和53年分水事業は完成し、この建設記録として水資源開発公団吉野川開発局、四国電力・編・発行『高知分水・天神発電所工事誌』(昭和54年)の書がある。
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