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5.奈川渡ダム、水殿ダム、稲核ダム(梓川)の建設

 長野県に初めて電灯が灯ったのは明治31年5月である。長野県電灯(株)が裾花川に茂菅発電所(長野市茂菅)を建設し、長野町に電灯を供給した。水力発電は落差を利用水車を回し、水車に直結した発電機で電気をおこすもので、水量と落差が発電量を左右することとなる。

 昭和5年長野県全体で発電所65ケ所、出力40万KW、昭和20年発電所 118ケ所、出力78万KW、昭和60年発電所約 150ケ所、出力89億KWに達した。

 このように水力発電県となった理由について、

・水量と急峻な河川に恵まれていること
・古くから養蚕や製糸や精密機械工業の発展により電力需要があったこと
・東京や名古屋、大阪など電力会社が競って進出してきたこと

が挙げられる。

 梓川における水力発電ダムの建設を追ってみたい。
 梓川はその源を北アルプス槍ヶ岳(標高3180m)に発し、景勝上高地を流れ、湯川、奈川、水殿川、島々谷を合わせ松本平に出て、梓川扇状地を形成し、奈良井と合流する。全長約65kmである。

 この急峻な梓川は電源の宝庫と着目されていた。大正8年島々発電所(諏訪電気(株))出力 700KW、9年竜島発電所(京浜電気(株))出力2万KW、さらに東京電力(株)によって14年大城川発電所3000KW、昭和2年前川発電所出力2000KW、3年湯川発電所出力6000KW、霞沢発電所出力3万9000KW、11年沢渡発電所出力4000KWが次々と開発された。

 さらに、昭和30年代経済の発展に伴い電力需要が増大してくる。このような時代の要請を受けて東京電力(株)は、昭和44年梓川の上流から階段状に、奈川渡ダム(安曇発電所)、水殿ダム(水殿発電所)、稲核ダムとその下流 2.7kmに竜島発電所を5年余の歳月をかけ、 500万人の労力を投入して建設した。現在、水力、火力、原子力発電所との組み合わせによって、また、安曇、水殿発電所では大揚水式発電所もって、水資源の有効に活用しながら最大出力96万KWの電力を供給する。

 この3つのダム建設記録について、東京電力(株)編・発行『梓川水力開発工事報告』(昭和47年)、安曇村編・発行『ダムの記録ー奈川渡、水殿、稲核ダム』(昭和46年)、奈川村編・発行『奈川渡ダムの記録』(昭和51年)の書がみられる。

『梓川水力開発工事報告』

『ダムの記録ー奈川渡、水殿、稲核ダム』

『奈川渡ダムの記録』
 長野県南安曇郡安曇村に建設の3つのダムの諸元は次のとおりである。

・奈川渡ダムは堤高 155m、堤頂長 355.5m、総貯水容量1億2300万m3、最大出力62万3000KWである。事業費は 372.6億円を要し、施工者は鹿島建設(株)である。
・水殿ダムは堤高95.5m、堤頂長 343.3m、総貯水容量1510万m3、最大出力24万5000KW 、事業費は 115.6億円を要し、施工者は(株)間組である。
・稲核ダムは、堤高60m、堤頂長 192.7m、総貯水容量1070万m3、最大出力3万2000KW、事業費は47.7億円を要し、施工者は佐藤工業(株)である。

 なお、型式は3ダムともにコンクリートアーチダムで、渓谷にマッチした景観をつくり出した。

奈川渡ダム

水殿ダム

稲核ダム
 この『梓川水力開発工事報告』のなかで、水越達雄・東京電力(株)常務取締役は、ダム建設の苦難について述べている。

【本地域は、冬季気温が零下20℃にもおよび気象条件がきびしく、且つ地形は峻峡で、地質に河沿い断層が多く、技術的にむづかしい問題が山積みし、また工事中は集中豪雨による洪水被害、山腹崩壊による資材輸送道路の1年に亘る迂回、トンネル掘削中の湧水、なお幾多の困難に遭遇した】

 これらの困難な工事を次のような創意工夫によって克服したとある。

【特に奈川渡ダムの基礎処理工事におけるウォーターシュットなどの新工法開発、急峻な掘削面の処理、既設を含めた梓川水系全発電所の集中制御方式、揚水機同期起動方式の開発などの業績は関係者の苦心研究に負うところが多い】

 さらに、

【この工事は3つのダム発電所群を同時に施行するという画期的な大工事で、急峻な地形に挑む難工事の連続であり、上高地の乗鞍山麓一帯の観光地への交通錯綜した国道に接する工事であったので、安全を絶対的課題としてとりあげた】

 安曇工区では無災害最長記録、新竜島発電所工区では完全無災害記録を達成し、「労働大臣優良賞」を受賞した。
 この3ダムは、年間流入する水の70%を下流中信平土地改良区事業における田畑1万1000haに対し、かんがい用水を供給し、さらに、治水、砂防などに貢献している。

 なお、児童書である鈴木勇・那須田稔著『アルプスにダムができる』(鹿島出版会・昭和43年)は、3つのダムの建設の全工程をダム現場の技術者と童話作家によって描く。昭和36年10月9月、北イタリアアルプス地帯のバイオント・ダムにおける上流の山の地滑りに遇い、ダム湖の水が下流のロンガー一帯の別荘地帯を襲い、3000名近い死者を出した。このとき東京電力(株)は技術者をイタリアの現地まで派遣させ、地滑りの原因究明を調査させている。この梓川における3ダムの建設に万全を期した。



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