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2. ダムの紀行

 旅は日常性から非日常性の世界を体験し、あらたな精神を培う。定年前は多くの旅を重ねた方がよい。一人旅はいい。二人旅もいい。グループの旅もまた楽しい。あてもない旅、目的のある旅もいい。現場に出掛け、先人達の造ったダムを仰ぎみることも、ダム関係者にとって、新たな発見や感動に必ずや遭遇することであろう。ダム紀行に関する書をいくつか挙げてみたい。

(1) ダムを歩く 
 全国のダムめぐりをしている萩原雅紀著「写真集 ダム」(平成19年・株式会社メディアファクトリー)には、巨大な構造物のダム36基を写し出す。そのダイナミックなダムを挙げてみる。日本を代表する超巨大ダム宮ヶ瀬ダム(重力式コンクリートダム)。青い空に映える美しい堤体奈良俣ダム(ゾーン型ロックフィルダム)。利根川の最上流に位置する矢木沢ダム(アーチ式コンクリートダム)。ほぼ左右対称で、クレスト部にローラーゲート3門が並ぶ端正な顔だちがポイント藤原ダム(重力式コンクリートダム)。堤体は真っ白な岩がはるか高く積み上げられ、息をのむほど美しい南相木ダム(ゾーン型ロックフィルダム)。人工物がまったくない山中に突如現れる白い壁深城ダム(重力式コンクリートダム)。


「写真集 ダム」
 萩原雅紀は、このようなダムめぐりの魅力について、「怒涛のような放流、人間が造り出した巨大な構造物の迫力、周囲の自然との対比など、ダムの魅力はいろいろあるが、それは『めぐる』ことの理由はひとつ。それは『同じ形のダムがふたつとしてない』ことに尽きる。ダムには建設地点の地形や地盤の強度に合わせたさまざまな形式があり、その目的すなわち必要な貯水量によって規模もいろいろ、下流へ水を流すための放流設備にも多くの種類がある。それらの要素が組み合わさることで、それぞれの日本でいや世界でたったひとつしかないダムの姿を形成しているのだ」と言い切る。

 さらに、この書でのダム巡りは笹流ダム(バットレス式ダム)、湯田ダム(重力式コンクリートダム)、高瀬ダム(ゾーン型ロックフィルダム)、二風谷ダム(重力式コンクリートダム)、下久保ダム(重力式コンクリートダム)、石淵ダム(表面遮水壁型ロックフィルダム)、摺上川ダム(ゾーン型ロックフィルダム)、薮神ダム(重力式コンクリートダム)と続き、最後に大分県竹田市の日本でもっとも美しい白水堰堤をあげ、このように造形美を誇るダムは多く人を魅了し続ける、という。

 戦後、わが国は極端に電力エネルギーが不足していた。そのために昭和30年代には水力発電ダムが全国各地で造られた。
 毎日新聞社編・発行「ダム風土記」(昭和38年)には、昭和31年〜昭和38年にかけて完成した13基の水力発電ダムを捉え、各ダムの規模や構造、ダムの周辺の歴史、風俗、伝説、観光施設、交通、宿泊などが紹介されている。

 これらの13基のダムをみてみると、新丸ビル二倍に相当する糠平ダム(北海道)、河川開発のモデルケース石淵ダム(岩手県)、秘境尾瀬への新ルート奥只見・田子倉ダム(新潟県・福島県)、都の産業文化の原動力小河内ダム(東京都)、二億トンの水を貯める黒部第四ダム(富山県)、二十世紀のピラミッド御母衣ダム(岐阜県)、土木会に革命をおこす佐久間ダム(静岡県)、日本の代表的なアーチ式坂本・池原ダム(三重県・奈良県)、大和平野を潤す風屋ダム(奈良県)、小型戦艦ビスマルク号平鍋ダム(高知県)、洪水調節が目的の鶴田ダム(鹿児島県)である。

 この書で、作家城山三郎は佐久間ダムを紀行しながら水力発電男性説を述べている。


 「深山に疎開してたサルたちもこのごろおいおい戻ってきたようで、所長室の窓から、二、三十匹の集団が目撃されたこともあるという。老齢ながらサルのように身軽な所長さんは、水力発電男性説が持論である。四六時中綿々と働きつづける火力と違い日中から夜ふけにかけて大車輪で活躍し、深夜ぐっすりと寝込んでエネルギーを貯えるという。ダム発電の生態をたとえてのことだが、ダムの威容も機能も、男性的の一語につきる。戦後下落気味の男性株も、ここではぴんとはね上がり、見学者の中でも、気のせいか男の顔がいかにも晴々と見受けられた。」

 一方、作家椋鳩十は、工事中の鶴田ダムを見て、次のように表現する。

 「バスを連ねて見学に来る、近郷近在の善男善女たちは、うっとりとして見ほれているのだ。ため息をつき、感激するのだ。彼らは夏という季節が来るたびに、魔女ののろいをかけられて、荒れ狂う水のニンフたちを冷厳な機械たちが805平方キロメートルの湖水に、久遠にとじ込めてくれると信じているからかもしれない。静かにして、やさしい川内川を久遠に、そうであるようにと、願っているからであるかもしれない。」

(2) 佐久間ダムの変遷 
 その当時は両ダムとも、観光バスで賑わっている。佐久間ダムまでの交通は、飯田線中部天龍駅下車バス15分とあり、一方鶴田ダムへは宮之城線楠元駅下車、南国バス藤川下車、徒歩30分とある。今ではダムまでのバスの運行はされてないし、訪れる人も少ない。佐久間ダム行きのバスを写し出した写真が町村敬志編・著「開発の時間 開発の空間 佐久間ダムと地域社会の半世紀」(東京大学出版会・平成18年)の表紙に出ている。佐久間ダムは昭和31年10月の完成から、今日(平成19年)で51年を迎えた。

この書はダムの紀行ではないが、佐久間ダム建設が佐久間町地域に与える社会的影響について、日本人文科学会編「佐久間ダム−近代技術の社会的影響」(東京大学出版会・昭和33年)の書による学術調査を踏まえ、その後の半世紀にわたるポスト佐久間ダム開発を追っている。昭和31年9月浦川町、佐久間村、山香村、城西村の合併により人口2万6 000人の佐久間町が誕生した。この合併には、ダムからの国定資産税収入の確保という思惑があったという。


「開発の時間 開発の空間 佐久間ダムと地域社会の半世紀」
 一方では、電源地対策として交付される「水力発電施設周辺地域交付金」は佐久間町の生活インフラ整備の重要な財源となり、地域経済を潤した。組合立佐久間高校の開校(のちに県立高校に編入)による教育充実も図られ、佐久間ダム建設犠牲者の慰霊祭、文化展、イベント事業が行われ、さらに佐久間ダム湖への観光バスや遊覧船が運営(昭和47年廃止)された。

 このように佐久間町の経済は好調を続けていた。しかしながら、わが国の高度経済成長の終焉を迎えると、林業の不況、久根鉱山の廃業、ダム交付金の減少、人口の減少等により昭和32年佐久間町の財政力指数は1.6から昭和52年には0.4まで落ち込んでしまった。町当局の懸命な努力にもかかわらず、さらに佐久間町の財政は悪化した。平成元年バブル経済の崩壊に伴い町の財政は安定せず、老人人口の比率が増え、ついに平成17年佐久間町は浜松市に編入された。このようにこの書は佐久間ダムの建設時からの地域変貌について町当局や地元民の聞き取り調査によって詳述されている。戦後60年わが国は山間地域における第一次産業の衰退過程を辿ったが、佐久間ダムの建設は、佐久間町地域の衰退を防げなかったことを、この書は結論づけている。

 既に、城山三郎も椋鳩十も鬼籍に入ってしまった。現在堆砂問題をかかえる佐久間ダム、水害で悩む鶴田ダムを二人が訪れたとしたら、どういう印象を記すのであろうか。


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