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■ ハイダム築造の嚆矢・井川ダム
大井川流域の産業の発達は先ず金鉱石、木材であり、茶であり、さらに近代化をもたらした水力発電である。大井川水系の水力発電は明治43年小山発電所の建設から始まっているが、ダム技術の向上によって本格的なハイダムが築造されたのは戦後であり、その嚆矢が井川ダムである。
井川ダムは、大井川上流の接岨峡入口にあたる静岡県安倍郡井川村井川(現・静岡市井川)地点に水力発電を目的として、中部電力(株)によって昭和32年9月に完成した。 ダムの諸元は、堤高 103.6m、堤頂長 243.0m、堤体積43万m3、総貯水量15,000万m3、最大出力62,000Kw、型式は中空重力ダム、事業費 163億円で、施工者は(株)間組である。
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井川ダムは、日本初のホロー・グラビティ・ダム(中空重力式コンクリートダム)である。中部電力(株)は、普通の重力ダムのコンクリート壁の中に空洞部分を幾条にもつホロー・グラビティ構造について、当時イタリアの成功例を視察し、検討した。このイタリヤのダム視察について、武市光章著『大井川物語』(竹田印刷・昭和42年)に、次のように述べている。
「昭和30年5月、計画課長藤本得はイタリアに飛んで、シシリー島にあるアンチーハのダムを視察した。このダムは 110メートルという、かなり高いえん堤のホロー・グラビティ・ダムである。続いて、スイス国境のシンプロントンネルに近い、ザビオーネのダムを視察した。これももちろんホロー・グラビティ・ダムでえん堤の高さは60メートル余りのものであった。この2つのダムはいずれも橋脚部分(扶壁に該当する所)にまで空洞を有する、最も新しい中空重力ダムである。そして2つともイタリアのエヂソン電力会社建設担当重役、クラウディオ・マルツェロの設計に基づいて建設されたものであった。2ケ月半イタリアに滞在し、各地のホロー・グラビティ・ダムを視察した藤本得は、井川ダム建設に必要な知識と資料とを得て昭和30年7月末に帰社した。」
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さらに慎重の上に慎重を期し、イタリアからマルツェロを招いて井川ダム建設地を見てもらっている。 中部電力・建設部編・発行『井川発電所工事誌』(昭和36年)に、中空重力ダムについて、Dixenec ダム(スイス)、Sloyダム(スコットランド)、Bau Muggerisダム(イタリー)、Ancipaダム(イタリー)、Sabbioneダム(イタリー)の5ダムに係わる横断面図、平面図、水平断面図が掲載されている。 中空重力ダムの長所として
・ダム上流面の勾配が緩やかなので、この上の水重によって堤体の滑動や転倒に対する安定度が増す。 ・ダムの各ブロックは内部に空洞を持っており、空洞底部では岩盤が露出、このため堤体に働く揚圧力は力骨底面に僅か働くだけである。 ・コンクリート量を著しく軽減できる。 ・重力ダムに較べて、コンクリート打設用仮設備容量が70%程度であれば築造できる。 ・コンクリートを人工冷却する費用を省くことができる。 ・地盤が悪く基礎改良工事に手間のかかる所でも、ボーリング作業、グラウト作業がダムコンクリート打上りと無関係にダムの空洞内から施工できる。 ・ダム築造後の点検、修理が容易である。 ・重力ダムと同様洪水吐の設計が容易である。
短所として
・施工が複雑になるので、型枠費が増大する。 ・ダムの基礎幅が広くなるので掘削費が増大する。 ・工事中の洪水処理が重力ダムに較べて難しい。
を挙げている。 このような様々な角度から検討の結果、中部電力・社長井上五郎は英断を下し、日本初の中空重力ダムが誕生した。
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井川ダムでは、井川村総戸数 550戸のうち35%にあたる 193戸の移転家屋を生じている。その補償の特徴として、いままでの金銭補償より代替補償を重視し、積極的に新しい村造りが行われたことである。その補償の解決を前進させた要因は、斎藤寿夫静岡県知事が井川村の要請に基づく次の補償三原則を受け入れたからである。
第一に、村民の永年に亘り、希望する文化の障壁となる大日道路をダムの完成までに隧道として貫通させること。 第二に、村造りを良くし、文化の水準を高めること。 第三に、村民の納得する個人補償の完遂、現在を上廻る民生の安定を図ること。
この三原則は、昭和33年3月大日道路と匹敵する井川林道が完成。陸の孤島と言われた井川村は富士見峠を越えて静岡市まで2時間で結ばれるようになった。このとき多数の土地所有者が林道用地を無償にて提供し、協力を行っている。
一方新しい村造りについては、宅地造成、耕地造成はもちろんのこと、井川小学校、井川中学校の移転、プールの新設、神社合祀移転、簡易水道の布設、巡査駐在所の新設、火葬場の新設、共同墓地の造成、さらには、井川大橋の架橋、村内道路が整備された。いままで、稲が育たなかった井川村に造成された標高 800mの水田から反当6俵が収穫できた。
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このような新しい村造りについては、井川村役場編・発行『井川ダムの記録−写真集』(昭和33年)に詳しい。 なお、昭和32年4月29日ゲートの漏水止の作業中、潜水夫岡田繁雄が漏水箇所に足を吸い込まれ、水中で身動き出来なくなった。この潜水夫の9時間にわたる救出作戦が行われ、真夜中に助け出されたときは、谷間に喜びの「万歳!万歳!」の声がこだましたという。この事件は、島耕二監督によって『九時間の恐怖』(大映・昭和32年)として映画化された。
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